「Confronting」

 

素知らぬ顔で赤子に食事を与えている隙に、侵入者は己の居場所を確保していた。

授乳に同席するなどフシダラにもほどがある、と言って退場を命じたところ、
彼はキッチンで背を向けて、自分のやりたいように何かをし始めた。

黙り込んで今後の策を講じている冥に、彼は何も声をかけなかった。

そして彼女が寝椅子の定位置に戻るころには、
彼はその眼前のテーブルに茶と器のセッティングを終わらせていたのである。

まさか、この期に及んで来るとは思っていなかった。

繋がりを保つことで起こりうるリスクの手がかりを、これでもかというほど残してきたはずなのだが、
理解できなかったというのだろうか。

いや、――御剣怜侍に限って、それはあり得ない。

相当のロマンチストでバカだが、提示された断片から先を見通すことにかけては、
悔しいけれど、冥など及びもつかないほどの才能を持っているはずなのだから。

ということは、彼がここに居るのは、やはり相当のロマンチストでバカだからなのだろうか。

だとしたら冥のシゴトは、決まっている。
早急にこのバカな《弟》の目を醒ませて、ここからご退場願わねばなるまい。

赤子をすぐ隣に寝かせると、冥はできるだけ高圧的に見えるように留意しながら、定位置に腰掛けた。
そうすると、御剣が注いでいた紅茶を自分と冥の前に置く。

カフェインは授乳の関係で摂取を控えている。
それを伝える予定はないが、適当に断ろうと思い冥は口を開いた。

「ああ、私は――」

しかし、御剣が途中でその言葉を遮る。
「ここ最近、ルイボスティーを研究しているのだ。
ぜひ君に、評価をお願いしたい」

しっかりと下準備がされた茶器に、揺蕩う紅茶の湯気。
そして、どことなく《承認》を求める番犬のような視線。

これから、冥は彼を拒絶しなければならない。
だが、彼には納得して穏便に、ここから出て行ってもらわなければならないのも事実。

だとすれば、ここは受け入れるのが交渉としては妥当だろう。
紅茶なら懸念すべき物質も、目の前のこれにはどうやら入っていないらしい。

冥はカップを手に取り、その中の紅に口をつける。
全く違う茶葉のはずなのに、懐かしい空気が世界に広がった。

「――あなたらしい味ね。」
様々な衝動を全て押し込めて、どうにかそう評価する。
それを聞いた彼は、嬉しそうに口を歪めた。

いったんそうして受け入れた上で、冥は《戦い》を開始する。

「――けれどまあ、今更よくもノコノコと顔を出せたものね」

まずは、彼の理解を確認することが必要だ。

「今更?」
男は、ひどく不思議そうな顔をした。

「いつでもここに来ていいと、鍵をくれたのは君の方だろう」

彼はしれっとそう答える。
気付かないふりをして、冥は冷たく返した。

「私の手紙が届いて1年ほど経ったはずだわ。
それなのに、合鍵を使って侵入してくるとは、見上げた検事さんね。」

責めるようにそう言い放つと、御剣は全く動じることなく淡々と答えを返した。

「君は、関係を白紙にしてくれて構わないと言っていた。
構わない、ということは白紙にしなくてはならないわけではない。」

「…その論法が一度は使えると踏んで来たのね。
ドアマンに追い払うよう伝えておくべきだったかしら。」

留守でも通して構わない親戚、として御剣のことを出入口のドアマンに伝えていた。、
それだけに、出入り禁止にすることで余計な詮索をされるのではないかと、ルールを特に変えなかったのだ。
鍵の取り換えにしても、同じだった。

結局それらのことが裏目に出てしまった、ということになる。
つまり、彼の侵入を許したのは、そのあたりの対策をしていなかった自分のミスだった。

それでも小賢しい男の動きを追及したくなる衝動をどうにか抑えながら、
冥は表面上冷たく大きなため息を吐いた。

「わかったわ。今日は客人として扱ってあげる。」

そう告げると、御剣は少し顔を緩めた。
そして彼は、紅茶を二口ほど飲んでから、さも思いついたかのように冥に問いかける。

「ーーその子の名は、何というのだ?」

冥は、淀みなくそれに答えた。
こういう万一の事態のために、赤子には公表しても問題ない名前をつけている。

名前を聞いた御剣は、不思議そうに呟いた。
「狩魔では、ないのだな」

「何か勘違いしているみたいだけれど、この子の母親は、私のママよ。」
授乳のために追い立てておいて白々しいが、ここで自分が母親だと認めるわけにはいかない。

この男との腹の探り合いは、正直なところ厳しいものがある。
嘘を言えば必ずそこから矛盾を見つけて追い詰めて来るからだ。

「母上、の?」
「欧州で引き取って来た、養子だそうよ」

それでも、ある側面の事実を並べることで、いくらかは押し返すことができる。

「ママはすでに旧姓に戻ったから、あなたには馴染みがない名かもしれないわね」

冥がそう補足すると、彼は納得したかのように、そうか、と呟いた。

一口紅茶を口にしてから、御剣は再び冥に問いかけた。
「君は、どうしていた?仕事を辞めたと聞いたが――」

「休養が必要だったのよ。長旅をして、随分リフレッシュしたわ。」
事も無げに応じると、御剣が眉にヒビを作った。

「退職などという大事なことを、どうして相談してくれなかったのだ。」
「別れた男に、わざわざ話すようなことではないと思うけれど。」

「――厳しいな。」
冥が即刻に言い返すと、御剣は眉のヒビをそのままにして笑った。

「君は仕事を辞めたまま、育児に専念するつもりなのか」
「そうね。母が今多忙だから、面倒を見られるのは姉である私だけだわ。」

腕の中の子は、少しは安心したのか眠そうに冥に身を委ねていた。
「とは言え、次の年度には復帰しようと思っているけれど。」

「復帰、できるのか?」
「いくつか話が来ているから、もう少し落ち着いたら交渉に動くつもりよ。」
そう答えると、心配している様子だった御剣が、少しだけ表情を緩めた。

そこからしばらく沈黙した後、冥の方から話しかけてみる。
「あなたは、順調そうね。」

「ああ。オカゲサマで、近々主席にはなれそうだ」
含みのありそうなその言葉を、冥は、そう、とだけ言って流した。

「相変わらず、歩き続けているのね。」
「――そうだな」

御剣が、感慨深げにそう応じる。
どうやら、二人の間にある溝を認識していないわけではないようだ。

危ない橋を渡っていることは自覚しながらも、冥は話を先に進めた。
「それで、今回はどうしてアメリカに?」

「休暇のついでに、ここにある私のモノを取りに来ようと思ってな」
それを聞いて、冥はこう判断する。

――つまり、ケジメつけにきたということね。

黙したままそう結論付けて、少し安堵した。
流れにさえ沿うことができれば、面倒は避けられるかもしれない。

同時に感じる落胆を自覚しないようにしながら、冥はできるだけ淡々と言葉を返す。
「それならば、好きに持って帰るといいわ」

ゲストルームに置いたままだから、と続けようとした冥は、そこで気が付いた。
――目の前の男が、法廷で見る悪魔のような面で、こちらに笑いかけていることを。

「残念だが私が取りに来たモノは、提供されていた部屋にはない。」
そう言って、彼は冥の方を強く指さした。

「私が欲するのは、君が大事そうに抱えているその《重み》だ。」


背筋を強張らせながら、冥は一瞬だけ余所見をして赤子の安全を確認する。
ギリギリまでは、彼が《確信》に至るような行動は控える必要があった。

「――あなたが何を言っているのか、全く理解できないのだけれど?」

平静を装って笑って返すと、彼はやはり、人の悪い笑顔を浮かべる。
そして、持っていたトランクから何かを取り出し、冥の前に置いた。

「安心したまえ。個人が特定できる内容は記載を控えてある。」

置かれた紙の束の一番上には、いくつかの国の名前が書いてあった。

“フランス、ドイツ、イタリア…”

その羅列の順は、冥がヨーロッパを巡った順とほぼ一致している。
恐る恐る手を伸ばして中を捲ると、都市名と年月日が時系列順に並んでいた。

冥には、やはりそれらに覚えがあった。

「私がずっと好きだった女性が、しばらく失踪していたのだが」
少し残ったカップの紅茶をそのままにしながら、御剣は突如妙な言い回しの話を始める。

「調査の結果、彼女が欧州で子供を産み、君の母上に養子に出したことがわかった」
その言葉に、冥は何も動じないふりをするのが精一杯だった。

「出産時期などから、私はその子の出生について、身に覚えがあると考えている」

「――個人を特定できないような調査結果を出してきて、何を言うのかと思えば……」
焦燥の裏返しに、冥はそう一笑に付して取り繕う。しかし、

「《個人》はすでに特定して、この件を調査した探偵が安全な場所に保管してくれている」

調査したのは、御剣本人ではないらしい。
一人だけ思い当たる男の名を、冥は忌々しさを隠さずに呟いた。

「成歩堂、龍一……!」
「子供の出生だけでなく養母の名まで、彼がキッチリと調べてきてくれたお陰で、私はここまで来れた、というわけだが」

腹が立つほど勝ち誇った表情で、御剣はペラペラと喋り続ける。
「どちらにしろ、ここで重要なのは個人の特定でなく、《私が何をどこまで知っているか》、だ」

そして、その《事実》を冥に伝えることに意味がある、というところだろうか。
叫んで鞭をお見舞いしたい衝動を、冥はどうにか抑えた。

「――さて、ここからが本題だが、」
嫌な予感しかないその言葉に、冥はぎゅっと奥歯を噛んだ。

「君は先程、その子は母上の養子だと言ったな」
再び赤子の名を確認されても、冥は頷くことすらできなくなる。

だが、そんな様子などお構いなしに、御剣は言いたいように言葉を続けた。
「私は、その子との間の親子関係の有無を確認したい。」

相変わらず、恐ろしい男だ、と思う。
一番言って欲しくなかったことを、単刀直入に突っ込んでくる。

「公にする気はないので、できれば今、内々に協力してもらえたらと」
「あなたが、そんなことをする必要はないわ」

彼の言葉を遮って、冥は申し出を却下した。

「この子は母の子で、私が姉として、母と協力しながらこの子を育てていく。
父親が誰かなんて、知る必要もないわ」

眠った子が起きないように、声を抑えてそう応じる。
自分でも驚くほど、低く重い音が喉から出た。

御剣を睨み付けると、彼は悲しそうに息を吐く。
それから、じっとこちらを見据えて口を開いた。

「私の恋人は、重い事情を抱えて、私の前からいなくなった。」
そう語る男の声は、ひどく落ち着いている。

「彼女は私の前からいなくなる理由を示すモノを、たくさん残していった。
――その結果、私は思い出した。」

御剣を見ると、ひどく傷ついたような顔をして、ぼんやりとテーブルに目を落としていた。
「私が昔、父を自分が殺したのではないかと恐れていた頃、結婚など、とても考えられなかった。
――家族への影響を考えると、非常に恐ろしかった。」

それから、真っ直ぐに冥と視線を合わせ、彼はこう告げた。
「だから、この子の存在を知った瞬間、私は今回の件の大枠をつかむことができた。」

右手を一度顔に当て、言葉を選ぶようにしてから、彼は言葉を続ける。

「ルールとしてどんな出自だろうと差別はされないが、現実的にはそうではない。
君はそれをよく知っていたし、それを理由に私を蹴落とす人間がいるのが見えていた。」

彼自身は、わかっているのだろうか。敢えて、そうしているのだろうか。
彼の語る呼称が、《彼女》から《君》に変わっている。

「局内の序列を考えれば、私が主席検事に推されるのはもうしばらく先のはずで、それは君もだいたい知っていたはずだ。」

回りくどい言い方を止めて、彼は冥に問いかけてきた。

「なのに、どうしてそれより先に、君はいなくなってしまったのか。
そもそも、あれだけこだわっていた仕事を辞めたのは何故だったのか。」

冥はできるだけ御剣の目を見ないように心掛けた。
付き合いが長い分、目を合わせるだけで読まれてしまうことが多すぎる。

「全ての答えは、その子の存在に集約される。
――君の行動は、その子と、ついでに私を守るためだったはずだ。」

この男に敵わないのはわかっているし、この家に上げてしまった時点で“負け”が確定していたことは、薄々気付いていた。
だがそれでも、絶対に認めるわけにはいかない。

「さっきも言ったけれど、この子に父親は必要ないわ」
どうにか、彼を怒らせることができそうな、突き放す口調を使うことができた。

ここまで来たら、適度に激怒と失望を喚起して、彼の関心を失わせるしかない。

だが、彼はそれに乗ろうとはしなかった。
御剣は、怒らずにただ静かに懇願するだけだった。

「私にも、権利がある。望むだけの事情がある。
それを理解できない君ではないはずだ。」

天涯孤独の彼が、血の繋がった家族を求めるのは、確かに自然なことだ。
それが執着の域にあったとしても、納得はできる。

冥がしていることが、彼から肉親を奪うことだということは重々承知していた。

だが、それを認めることのリスクが大きすぎる。
だから、冥は心を鬼にして、黙って首を振った。

すると、正面のあたりから、大きな溜息が聞こえる。

「ここまで言っても、応じてくれないか。」

眉間のヒビに手を当て、しばらく目を閉じた後、彼はまっすぐ冥に視線を向けた。

「君がここで協力してくれないのであれば、私は公的にこの件を請求する。
君はなく、――その子の養親である、君の母上に。」

 

<つづく>