「Fork in the road」

 

「で、糸鋸刑事はどうなったんだ?」

「‥‥気になるのはそこなのか。」
御剣は、少し不満げな表情で酒杯を持ち上げる。

一連の話を御剣が語る間、成歩堂は黙ったままそれを聞いていた。
そして話が終わってすぐに出てきた言葉は、御剣の期待と少しズレたものだったのである。

「そりゃあ気になるさ。あの人がお前にどれだけ尽くしてたか知ってるだけにさ。」

そう言われて、確かにそれもそうだと御剣は納得する。

実際あの時、怒りと衝撃に支配された御剣を前に、年上の大男は明らかに怯えを見せていたし、
御剣の尋問に対して誠実に答えながら、何度もクビを覚悟したような発言と表情を見せていた。

その視線を思い出すために、御剣は軽く目を瞑る。

「彼の行動は、間違いなく私のためになされたものだ。
それは理解している。だから処罰は考えていない。」

御剣の答えを聞いた友人は、少し安心したように表情を和らげた。

「だが、その結果メイ達を守れなかったことと、私の蚊帳の外に置き続けたことに関しては、
 感情の面でどうしても納得できなかった。」

御剣はそう続けて、心から人の悪い笑みを浮かべる。

「彼にはいなくなった2人の分も働いてもらっている。
 ――もちろん給与は、据え置きで。」

その言葉に、成歩堂は呆れた顔で葡萄酒に口をつけた。

「刑事と検事じゃ、仕事が違うだろ…。」
「まあ、心意気の問題だ。」

実際には普段の仕事と、今回の《不祥事》の事実確認の調査をさせている。
そう説明すると、友人は表情はそのまま、ふうと大きくため息をついた。

「――それじゃ、糸鋸刑事のことは問題ないとして。」
話を変えるように、成歩堂が御剣に向き直る。

「《いなくなった2人》のことはどうするんだ?」

何となく、御剣は視線を下に落としてから答えた。
「弓彦くんのことは、美雲くんに任せることにした。」

「ああ、お前が面倒見てた子だっけ」
「彼らは同い年で仲が良かったからな。私よりも彼女が適任だ。」

刑事から説明を受けた美雲は、弓彦の連絡先を聞き出すと部屋を飛び出していった。
スケジュールを調整して、できるだけ早く彼に会いに行くという。

「彼が新しい土地で落ち着いた頃に、私も会いに行こうと思っている。」

何を言ってやれるのか、御剣の中ではまだ模索の途中だった。
少なくとも、“いつか安心して戻っておいで”とは言える状況にしていきたいと思っている。

「そっか」

成歩堂は、穏やかにそう応じてから本題に入る。
「…で、狩魔冥のことは、どうするんだ?」

「どうもしないさ。」
無理やり、御剣は喉の奥から何でもないような声を絞り出した。

「どうもしないって…彼女、仕事辞めるくらい体調悪いんだろ?」
心配じゃないのか?と重ねて問われ、御剣はつい本音を吐き出す。

「心配しているに決まっている!」
思ったより荒い声が出たことに少し驚いて、御剣は一つ咳ばらいをした。

「ーーだが、私が動くことを、彼女は望んでいない。」
「何で、そんなことがわかるんだよ」

「退職の件を知って、メイの携帯に連絡したが、通じなかった。」
海外の電話のシステムを詳しく知っているわけではないが、解約したということは理解できた。

自宅の方は、留守電の記録が一杯らしく、メッセージを残すこともできなかった。
そして、メールアドレスは、全て全滅。

何の連絡もないまま音信を切られたことを悟ると、手紙を書く勇気はなくなった。

自分に言い聞かせるように、御剣は言葉を吐き出していく。
「経緯はどうあれ、彼女はようやく逃れることができたのだ、柵から。」

「ーーシガラミ?」
「メイは父親の件をひどく気にしていた。」

できるだけ、そう見えないように振る舞ってはいたが、傍から見れば明らかだった。
彼女が御剣と共にいるということは、必然的にそのことに直面せざるを得ないということだ。

互いに話し合い、それを受け入れた上でパートナーとなったわけだが、
実は彼女を苦しめているだけなのではないかという心配が、常に御剣の中にあった。

そう説明して、持っていたグラスの中身を一気に飲み干す。
「だから、彼女の幸せを願うなら、このままにしておく方がいい。」

そんな御剣を言葉少なに眺めていた成歩堂も、最後の一口を流し込む。
「お前にしては、えらく諦めがいいなあ。」

そう言いながら、彼はボトルを傾けて手近なグラスに注いでいった。
成歩堂からの酌を受けながら、御剣は言葉を返す。

「最後に会った時、メイが言っていた。
 必要があれば、私は彼女を切り捨てることができる人間だ、と。」

「そうかなあ。」
「否定、できないのだ。――できなかった。」

軽い相槌を打ったつもりの友人に、御剣は力なく笑って答えた。
すると、友人が空気を察したかのように、不安そうな目で御剣を見る。

「少し話が昔に飛ぶが、付き合い出した頃に、彼女に問われた。
 大義のためなら何でも犠牲にする覚悟があるか、と。」

「それで、お前はーー」

「勿論、肯定したさ。
 命だろうが、血肉だろうが、何でも捧げるつもりだった。」

御剣は、彼女の言葉通り、覚悟の強さを尋ねられたのだと思った。
これから続く茨の道を、彼女が心配してくれているのだと感謝して、誠実に問いに答えた、つもりだった。だが――

「彼女が知りたかったのはーー
 お前に、《彼女を》捨てる覚悟があるのかということだったわけか。」

御剣は、その言葉に頷いた。
「恐らく、あの時点で彼女の中ではこの結末が決まっていた、ということになる。」

合間に肴用の種実を口に入れて、力任せに噛み砕く。
それをワインで流すと、御剣は大きく溜息をついた。

「そうだとすると、理解しがたかった彼女の行動の多くに納得できる。」

頭が重く、項垂れたまま顔を上げることができない。

「私が提供した、彼女が暮らすための部屋にほとんど何も置かなかったことも。
 結婚を望む私の言葉に半ば他人事のような返事を返してきていたことも。」

テーブルに額を載せたまま、御剣は今まで言葉にできなかった結論を口から出した。

「彼女が私を見限ったのではない。
 はじめから、《私が彼女を》切り捨てていた、ということだ。」

それなのに何度も結婚を打診して右往左往する姿は、《矛盾》そのものだ。
きっと彼女には非常に滑稽に映っていたことだろう。

笑え、と御剣は伏せたまま吐き捨てるように言った。

それからしばらく沈黙が続いたが、
ふと、その頭上に友人の声が降り注ぐ。

「このままで、本当に後悔しないのか?」

「――するに決まっている。」
本音を隠す気力は、もう残っていなかった。

「だが、メイの出した答えを、尊重する。
 彼女が守ろうとしたものを、ぶち壊すわけにはいかない。」

すると成歩堂が、わざとらしいほど大きなため息をついた。
「つまり、お前は大義のために彼女を犠牲にできるということを、
 《このまま何もしないこと》によって証明するんだな。」

その言葉は御剣の一番痛いところを貫通したが、御剣は抵抗しなかった。
「軽蔑してくれて、構わん。」

御剣は少し起き上がると、近くにあったワインボトルに手を伸ばす。
再び中身を注ぎ足しながら、半ば投げやりに言葉を続けた。

「もはや、理想を成し遂げることでしか、彼女の配慮に報いる術はないのだ。」

「――そうかなあ。」
少しの間の後、友人が不思議そうな声を出した。

「そもそも配慮っていうのも、狩魔冥が勝手に動いたことだろ?
お前は納得しているのか?」

「納得、するしかあるまい。彼女がそう決めたのだから。」
そう返すと、明らかに重い音が御剣の頭上に圧し掛かる。

「‥‥彼女に決断の責任を負わせるのか。」

聞き捨てならない問いかけに、御剣は酔いですっかり据わった目を、成歩堂に向けた。

「どういう、意味だ。」

まだ酔いの回っていない相手は、まっとうな視線で見つめ返してくる。

「離れることを彼女に選択させておいて、
 自分の方が置いて行かれた被害者だと、クヨクヨし続けるつもりなのか?」

「何だと?」
「――そういう見方もあるってことだよ」

そう言いながら、成歩堂は空いていたグラスに水を注いで御剣に差し出す。
酔いを醒ませという意図を読み取って、御剣はそれを受け取った。

「ぼくは彼女の選択が必ずしも正しいとは思っていない。」

恐らく友人は、御剣に大事なことを伝えようとしている。

「他の可能性を勝手に諦めて、誰にも相談せずに抱え込んで出した、独りよがりな結論だとも言えるだろ。」

それは、御剣も思わないでもなかった。
彼女へ感じている未練の何割かには、それに対する憤りが含まれている。

「それも一つの正解だとは思うけどさ。」
自分のコップにも水を注ぎながら、成歩堂は話を続けていた。

「当事者の一人であるお前は、彼女の書いたシナリオにただ乗せられて、グジグジ言ってるだけじゃないか。」

はっきりとそう言われて、御剣は思わず笑ってしまった。
「‥‥言ってくれるではないか。」

そう投げかけると、ぼくぐらいしかお前には言えないだろ、と友人は少し人が悪そうに笑った。

「お前が彼女より理想を取るんなら、はっきりそう伝えて彼女を捨てて、お前が悪者になる道もある。
 このまま独り善がりの悪者の役を押し付けて、彼女のプライドを守ってやるのも一つの正解だと思う。」

何も言わず、何も逃さないように、御剣は成歩堂の話を聞いていた。
一つの視点だけで事実を眺めて動けなくなっていた彼の視界に、声が光のように降り注ぐようだった。

「それ以外の道だって、探せばあるかもしれない。
 お前が全部投げ捨てて、彼女を探しに行く選択もないわけじゃないだろ?」

そうすれば、きっと彼女は努力を壊されて怒るかもしれない。
しかし確かに、もしかしたら彼女の別の苦しみを和らげることができるのかもしれない。

「何を選んでも、正解なんてないんだ。
だから、お前がどんな選択をしようと、別に軽蔑しないよ。」

その言葉に、一本の道しかなかった彼の世界に、いくつもの道が現れる。
――いや、元からあったものを、彼自身が見ようとせず、そしてきっと彼女が見せようとしなかっただけなのだろう。

改めて成歩堂を見ると、いつか自分を救った時のような静かな強さで、彼はこちらを観察していた。

やはりこの男にはかなわない。
そう思いながら、御剣は自嘲と感謝を込めた笑みを零した。

様子の変わった御剣を察したのか、成歩堂は少し安心したように自分のグラスにも水を注ぐ。
水の入ったボトルをテーブルに軽く置くと、彼もはっきりと口角を上げて御剣を再び見た。

「――で、改めて聞くけどさ、」

友人が、真っ直ぐな目をして御剣に問いかける。

 

「お前は何を選ぶんだ?」

 

 

<おわり>