「Children」

 

一柳弓彦は、国際線のチケットをぼんやりと見つめる。

これを得た達成感とこれからの好奇心で満たされているはずなのに、
気持ちは、ただひたすら沈むばかりだ。

一年ほど前から、一柳弓彦はとある決心をしていた。
そしてどうにか、その第一歩を踏み出す資格を得た。

このために、必死に仕事や勉強を頑張った。
そして、このために、いくつかの大事なものを失った。

仲の良かったトモダチや、恩義ある人たちと疎遠になった。
それが、一番いいことだと思ったのだ。

それでも、このぽっかりと空いたような気持ちは拭えそうにない。

もちろん今日の旅立ちのことも彼らには伝えていないので
門出の日だというのに、空港には知り合いが一人もいなかった。

彼には似た境遇の協力者がいたが、病に倒れたと聞いたので
これ以降はできるだけ助けをもらわずに、頑張ろうと思っている。

――オレ、ひとりぼっちなんだ。

ため息をついて、立ち上がる。
ここで弱気になっていても仕方がないのだ。

そこで顔を上げた弓彦は、遠目に見知った姿があることに気付く。
彼らは既に弓彦の所在に気付き、手を振りながらこちらに歩み寄ってきていた。

「――どうして」

私服姿の彼らに、驚きを隠せないままそう尋ねる。

「大ドロボウを舐めちゃダメだよ、一柳さん!」

太陽のような笑顔を振りまきながら、一条美雲が間近まで迫ってくる。
その隣では、水鏡が優しく笑っていた。

「出発の時間は、糸鋸刑事を尋問して聞き出した。」
御剣検事の隣には、ばつの悪そうな表情で糸鋸刑事が頭を下げている。

口を割るなと言ったのに割ってしまったせいだろう。
御剣検事が本気を出すと怖いのは、一柳もよく知っている。仕方がないと納得した。

「御剣検事…オレ、あんまり良い弟子じゃなかったのに。」

上級検事になってから、弓彦はあからさまに御剣から遠ざかった。
嫌われていても仕方がないと思っていた。

それを執り成そうとしてくれた水鏡にも楯突いて近寄らなくなったし、
気晴らしにと遊びに誘ってくれた一条のことも、冷たくあしらった。

「欧州行きのために、すごく頑張ってたよね!」
知っていたよ、と笑う目の前の子を見て、弓彦は思わず涙目になった。

「相談してくれなかったことは残念です。それでもあなたの無事を祈っていますよ。」
「君が私の弟子であることに、今も変わりはない。元気に、過ごしたまえ。」

後ろで、大人の二人が穏やかに笑っていた。
刑事も、黙りながらも困ったような笑顔を浮かべている。

「ありがとう」
震えた声で、弓彦は礼を言う。

「オレ、絶対偉くなって、御剣検事のこと助けるから!」
 

 
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泣きながら、弟子の青年はゲートを進んで行った。

「私も、ボルジニア行こうかなあ。
一柳さんいないと、つまらないし。」

遠ざかる一柳検事を目で追いながら、美雲がぽつりと呟いた。

「あれだけ無視されていてそう言えるとは、大したものだ」
「うーん‥‥だって、一柳さん必死で頑張ってたから、しょうがないかなあと思って。」

「遅すぎる反抗期だと思っていました」
水鏡も、やんわりと同意する。
「同意見だ」

「なるほど。それに、他に理由もあったみたいですし‥‥ね」
美雲がちらりと、車を取りに行く糸鋸刑事を見遣った。

御剣も、無言で小さく頷く。

糸鋸刑事は、恐らく何らかの事情を知っている。
彼は掃除だ雑用だと、いろいろな検事の部屋に出入りしていた。

時々一柳検事の部屋にコソコソと出入りする姿も、御剣や美雲に目撃されている。
だが、この件に関しては恐ろしくガードが固いのだった。

「――どうやって盗もうかなあ」
「立派な大人になったというのに、物騒なことを言うものではない」

御剣は大人らしくそう諌める。
しかし内心で考えていることは、目の前の大ドロボウとほとんど一緒だった。
 
 
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翌日は普段通りの仕事だった。
――と言っても、最近は普段よりも非常に忙しい。

一柳検事が海外研修となっただけではなく、ここ1ヶ月でやたらと人事の異動があった。
新しく配属され慣れていない検事たちのフォローは、元から居た御剣たちの仕事である。

その日担当する裁判がお開きとなり、部下に手伝わせながら次の準備を行っている合間のことだった。

「ライバルが一網打尽になって、しばらくは安泰ですね」
二人きりの執務室で、金髪の若い部下が軽い調子で話しかけてくる。

「――ライバル?」
怪訝な思いで聞き返すと、部下は不思議そうな顔をした。

「ほら、何人かいたじゃないですか。
御剣検事の他にも次の主席検事を狙っていた…」

「そんなヤツがいたのか」
御剣が驚くと、長髪の青年は苦笑した。

「ほんっと、出世願望強いクセに競争心ないんですね、検事。」

だが、御剣の関心事はそこではなかった
「それはどうでもいい。
一網打尽とは、どういうことだ」

「そこから説明しなきゃいけないんですか」
面倒だなあ、と呟いてから青年は御剣に問いかける。

「最近、中途半端な時期なのに、やたら人事異動多かったじゃないですか
あれ、内々の不祥事での左遷って、知りませんでしたか?」

「いや、耳に入ってきていない。」
本当に初耳だった。

「そうなんですか。
一柳くんと狩魔検事が被害者だったから、てっきり御剣検事も裏で一枚噛んでるのかと」

聞き捨てならない名前を二つ聞いて、御剣の眉間にぐっと力が入る。
「一柳くんと、狩魔冥が?」

「ほら、二人とも父親絡みの嫌がらせを受けていたでしょう。
どっちも今まで隠してたけど、局内でもひどかったらしくて」

相手は度胸があるらしく、御剣の視線をものともせずに話し続けた。

「もう耐えられないっていうんで、溜めてた証拠から犯人割り出して、二人で訴状突きつけたらしいです。
――で、和解する代わりに首謀者も実行犯も全員、ここから別の部署に追い出したって話で。」

ほとんど、知らない話だった。
気が遠くなりそうな御剣だったが、次の発言で急激に現実に引き戻される。

「狩魔検事も一柳くんも日本に住めないくらいの状態になってたらしいし、
狩魔検事も追い詰められて検事やめちゃいましたしね。」

「――今、なんと言った?」

思わず全力で睨み付けてしまったが、相手には動じる様子が全くなかった。

「狩魔検事、退職したそうです。心労で。」

「――初耳だ。」

「僕も一昨日、一柳くんから聞きました。置き土産ってやつでしょうね。
アメリカでも内々の秘密らしくて、知っている人、少ないらしいです。」

情報として記憶したものの、内容は全く理解できない。
固まった御剣に、部下の青年は一つのヒントを投げかけた。

「糸鋸刑事に聞いてみたらどうですか?」

「――糸鋸刑事、だと?」
「狩魔検事に頼まれてこっちの執務室片付けたの、彼らしいですから」

驚愕を露わにして走り去る上司を見ながら、若い部下はため息をつく。
上司としては些か情けない姿だが、彼が身内や部下に親身であることは有名で、特に悪印象ではない。

「うーん、同い年のヨシミで引き受けちゃったけど、あれだけ動揺されると罪悪感わくなあ」

呟きながら、彼は身に着けたアクセサリーをジャラジャラさせる。

「一柳くんが日本を発ったら、それとなく御剣検事にバラしてほしいとは言われたけどさ。
あの勢いじゃ、刑事のクビが飛ぶんじゃないかなあ‥‥」
 
 
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一年ほど前のことだっただろうか。

その日、糸鋸刑事はいつものように検事達の執務室の掃除に回っていた。
狩魔検事への嫌がらせの抑止と、御剣検事の株を上げる運動を兼ねた習慣であった。

新しく上級検事として執務室が与えられた一柳検事の部屋に何気無く入って、刑事は驚いた。
何処かで見たような嫌がらせの光景が、そこに広がっていたからである。

部屋の主は在室中で、涙目でそれを片付けていた。
誰にも言わないでほしいと、一柳はひたすら懇願するばかりであった。

どうしてこういう目に遭った若い人は、同じようなことを言うのだろうか。
そんなことを思った刑事は、彼を手伝いながら似たような目に遭っている人物のことも思い出していた。

後日、相談のために一柳検事を連れて行くと、件の人物――狩魔検事は不機嫌そうにため息をついた。

糸鋸刑事が事情を話すと、もっと不機嫌そうな顔をしながらも彼女は言った。
「人選を間違えなかったことは評価するわ、ヒゲ。」

しばらく逡巡してから、狩魔検事は相談に訪れた二人にこう告げた。

「とりあえずこのバカは私の庇護下に置くわ。安心なさい。」
「ひ‥‥ひごかにおく」

言葉の意味がわからない一柳検事の鼻先を、狩魔検事の鞭が軽く掠める。
「助けてあげるって言っているのよ」

「ど‥‥どうやってだよ!あんなの、もう、検事やめるしか‥‥」
刑事から見ても、あれは、どちらも件もひどい悪意の集合だった。

逃げたい――一柳検事がそう思っても、全く仕方がない。
しかし目の前にいるのは、その悪意を今まで強引に組み伏せて検事を続けている人間である。

狩魔検事は、ひどく人の悪い笑顔で年若い後輩を見上げる。
「辞める覚悟があるなら、協力なさい」

「協力‥‥」
一柳検事は、半ばぼんやりと彼女の言葉を反復する。

「でもオレ、上級検事だけど、まだなり立てで、何の力も持ってない」
「別に力なんかいらないわ。証拠を私に渡して、私の言う通りに動けばいいだけよ。」

「‥‥それだけで、何とかなるのか?」
「私を誰だと思っているのよ」

父親とよく似た笑い方で、狩魔検事は口元を歪めた。

「アメリカや国際警察とのコネクションは、バカにはできないのよ」
「な‥‥何か、裏の力を使うのか?」

あまりの迫力に、一柳検事がごくりと喉を鳴らす。
「プライベートのことで、仕事の力なんか行使しないわよ」

今から食べる小さな雛を眺めるかのような笑みを浮かべて、狩魔検事は返した。
「私は確かに犯罪者の子として忌避されてはいるけれど、発言力もゼロではない、ということ。」

「うーん、力は使わないけど、発言力を使ってどうにかする、ということか?」
「ギリギリ、不合格ではない答えね」

それはどうやら、肯定であるようだった。
「今の検事局長はそういうチカラに弱い人だから、
あの人に“ご相談”させていただくだけである程度は何とかなるでしょうね」

確かにそれである程度何とかなるかもしれないと、糸鋸刑事は思わず苦笑した。

「あなたのお陰で説得力が強まったわ。不幸を喜ぶようで悪いけれど。」
「それじゃあ、狩魔検事も一柳検事も、もう怯えることなく暮らせるってことッスね!」

刑事が笑顔でそう発言すると、何かが眼前を音速で通り過ぎた。

「ひギャーッス!」
「さすがに御剣怜侍の犬だけあって、甘いわね、ヒゲ!」

「このバカはともかく、私は無理よ。」
「‥‥何でだよ!」
バカと言われても全く気にすることなく、一柳検事は狩魔検事に食い下がる。

「あなたはバカだから、あなた自身は人からそこまで憎まれていないわ。でも、私は違う」
「狩魔検事‥‥やっぱり自分が嫌われ者っていう自覚があっギャーッス!!」

軽口に対する相応の報いを受けて、糸鋸刑事は口がきけなくなった。
「犬は黙ってなさい」

なかなかひどいことを言い捨てると、狩魔検事は一柳検事に向き直った。
「でも、それじゃ‥‥」

「私は天才だから、どこでも生きていける。心配される筋合いはないわ」

「え、じゃあずっと日本と海外を行ったり来たりするッスか」
糸鋸刑事は、先程の制裁など特に気にすることなく話に入る。

「そんなわけないでしょう」
狩魔検事は、こともなげに言い切った。

「この件が終わったら、私は日本からは退くつもりよ。」

「ええっ、じゃあ御剣検事のことは――」
御剣検事は、狩魔検事のことを本当に大事にしている。

それが男女の情なのか、家族としての親愛なのか、刑事には判断できないが、
彼女がいなくなるとひどく寂しがるのは間違いない。

「コドモじゃないんだし、どうかする必要もないでしょう」
そう言い切ってから、彼女は思い出したようにこう言い直した。

「何かあった時の協力はするわ。あの男には借りがあるから」
私のチカラを舐めないことね、とまた言い添えて、狩魔刑事は得意そうに笑顔を浮かべる。

客観的に見るとどう考えても、御剣検事より狩魔検事の方が相手に思い入れがあるはずだ。
なのに彼女は、ほぼ絶対にこういう態度を崩さない。

――たぶん苦しいのは狩魔検事の方だと思うッスよ‥‥。
そうツッコミを入れようとしたときのことだった。

それまで黙って話を聞いていた一柳検事が、ずいと狩魔検事の前に出た。

「それってつまり、狩魔検事みたいに外国で頑張れば、オレも御剣検事に恩返し、できるのか?」
ひどく真剣な表情で、彼は先達に問いかける。

「オレはこのまま日本に居たら、お荷物なんだろ?
嫌がらせは止めれたとしても、人の気持ちまでは変えられないから。」

その言葉を受けた狩魔検事も、ひどく神妙な表情でこう返す。
「――バカと呼んだこと、撤回すべきかもしれないわね」

肯定ととらえたのか、一柳検事がぐっと喉を詰まらせた。

「正直なところ“私達”、つまり殺人や汚職を行った検事の子が身近にいるのは、
あの男の将来――平たく言うと出世には、悪影響だわ。」
「やっぱり‥‥。」

「けれど、あなた一人くらいなら、あの男の度量の大きさを示すバロメーターで済むかもしれない」
「でも、それはオレに力がないから許されてるんだろ」

狩魔検事は無表情のまま、否定しなかった。

「オレだって、御剣検事に何か返したい。そのための力が欲しいんだ」

――たぶん、今のまま、慕っているだけで、十分恩返しになってるッスよ。

糸鋸刑事はそう言いたいのをこらえた。
自分だって、御剣検事のために何かできれば嬉しいのは同じだからだ。

「日本にいたら、お荷物かもしれなくても、外国だったら…」
「それは、あなた次第よ。
力が伴わなければ、何処でもただのお荷物にすぎない。」

痛切な反論を受けて、一柳検事は涙目で黙り込んだ。
しかし、狩魔検事から視線を逸らさない。

あの、睨み合いに負けないことで有名な眼光の前で怯もうとしないのだ。

「――そこまで言うのなら、チャンスをあげるわ。」
しばらく睨み合いを続けた後、狩魔検事は小さくため息をついた。

「国際警察が、私みたいなポジションの検事をあと何人か欲しいと言っているわ。
あなたが1年で一定のレベルまで達することができれば、見習いとして推薦してあげる」
「――やる!」

狩魔検事の言葉に被せるように、一柳検事は大声で宣言した。

青年は床にしっかりと足をついて、今にも戦いにでも出そうな表情で、新たな“師匠”に立ち向かう。

傍から見ていて、気のせいだろうか。
興味深そうに彼を見る狩魔検事の表情に、少なからず喜びが含まれているように感じたのは。
 
 
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「それでホントに狩魔検事のおメガネに叶ったんだから、すごいッスよね」

あの二人はもう、どちらも日本にはいない。

一柳検事の海外行きが決まった時点で、狩魔検事は犯人達に証拠をつきつけた。
代理人を通して二度と同じことをしないよう警告し、主犯と実行犯を自主的に追い出したのである。

警告だけで済まさなかったのは、背景に御剣検事への間接的な嫌がらせの意図が示唆されたからだ。
その種を追い出したことで、今のところ、検事局は多忙ながらも安穏としている。

「でも、相変わらず外部からの手紙は届くッスね‥‥。」

郵便物の仕分けをしながら、糸鋸刑事は小さくぼやく。
本来は事務の仕事だが、シゴトの一環として暇を見つけては手伝うのが彼の日常だった。

先代の一柳と狩魔に恨みがある人間は、検事局以外にもゴマンといる。
その中でも怒りの大きい人間は、何らかの行動を起こすのだ。

特に狩魔家は、嫌がらせを忌避して家も財産も全て日本から引き揚げている。
このため、怒りの矛先の多くは海を越えてアメリカに行くよりも、
狩魔豪やその娘の執務室があった国内の検事局に向きやすいのだ。

狩魔検事は一柳検事の分もまとめて、特に酷い嫌がらせには内々に対処をした。
なので、刑事事件になりそうなレベルの嫌がらせは、最近はほとんどなりを潜めている。

しかし、正当な抗議の体をなした投書などは、相変わらず一定数は届くのだ。
片手では持ちきれない、二人分のそういう郵便物を見ながら、刑事は小さくため息をつく。

狩魔検事は、一柳検事が日本を出たら、御剣検事に秘密にする必要はないと言っていた。

御剣検事が直接、この件で狩魔や一柳のカタを持つと、彼まで攻撃対象になりかねない。
だから、かなり早い段階から彼女は御剣検事を蚊帳の外に置いていた。

解決した後ならば、彼はどう足掻いてもこの件とは無関係な存在である。
いくら義憤に駆られようが地団駄を踏もうが問題ない、というロジックらしい。

そのため一柳検事も、一柳検事は心酔の対象を狩魔検事に乗り換えたフリをしていた。
狩魔検事も、御剣検事を無碍に扱うように心掛けているのは間違いなかった。
――御剣検事の様子を見る限り、親交がないようには見えなかったのだが、少なくとも仕事の上では。

そうして冷たく扱われていたとしても、御剣検事は寂しいに違いない。
一柳検事は一人目の弟子として思い入れを込めて育てていたし、狩魔検事のことも大事にしていた。

今のところ《真相》は彼には伝わっていない。
知らないところでそんな二人に守られたなどと知れば、心穏やかでいられないだろう。

そう考えると、思わず心の呟きが漏れてしまう。
「御剣検事がこのこと知ったら、どうなるッスかね‥‥。」

「どうなるのか、実際に試してみようではないか」

振り向くと、そこには絶望があった。

息を荒げた御剣検事その人が、鬼神のような目付きでこちらを凝視しているのである。


クビが、飛ぶ――真っ白になった刑事の脳裏に、そんなフレーズがただ大きく浮かぶのであった。


<おわり>