「Fly away」

 


――御剣の口から出た一言は、彼女を眠り姫から怒る獣に変える呪文となった。
 
   
遠い異国でそれぞれ暮らす御剣と冥だが、逢瀬の機会は意外と多い。
冥が、仕事でアジア方面に来ることが多いためだ。

日本に来るときはもちろんだが、それ以外の近隣諸国での仕事のときも、彼女は日本に寄って帰る。
ここ数ヶ月は日本ではなく、その近隣を飛び回っているのだが、彼女はほぼ毎回、御剣に会いにやって来た。
 
ただし、彼女はたいてい夜に来日して次の朝の便で帰ってしまう。
しかも、来日を知らせる電話は、彼女が飛行機を確保した後――早くて、到着の前日といったところか。
 
御剣は連絡を受けてから、その日の予定をできる限り再調整し、可能であれば彼女に会いに行った。
冥ははそんな彼を、空港近くのホテルの一室で迎え入れる。
 
ただ――決まって彼女は疲れていた。
 
そう見せないように努めているのは伝わってくるのだが、
会話の応答が曖昧なものだったり、うとうととしていたりするのだ。

大丈夫だと言いつつ、彼女の意識は日付が変わる前にはぷつんと朝まで途切れる――
片手くらいの回数は彼女から来日の連絡を受けたのだが、たいていがそんな様子だった。
 
逢瀬らしいことは何一つできぬままその夜を過ごすことが多く、
ひどい時には、御剣が朝に目を覚ますと、冥はすでに書置きのみ残して日本を発っていたこともある。
 
そうした事態の連続に、御剣も決して落胆や寂しさを抱かないわけではない。
しかし彼女が無理を圧して会いにきたという事実や、遠い電話の声ではなく実物が傍にいるという喜びも同じくらいにあった。
 
なので、御剣の言葉は、彼の都合や心情を考えて出たものではなかった。
疲れている冥を気遣った故のものだったはずなのである。
 
会うのは、また日本に来れるようになった時や、互いに休暇が取れた時で良い。
今は週に1度の電話で十分だから、あまり無理をせずに日々を過ごしてほしい――
 
そう思い、意を決して開いたはずの口から出た言葉は、
思い返すと誤解されても仕方のない、ひどく淡白なものだった。
 
「こんなに頻繁に、会いに来なくても良いのだが」  
それまでベッドに腰掛け、うつらうつらとしながらどうにか御剣との会話を続けようとしている様子の冥だったが
その音を耳にした途端、彼女の両眉が鋭角に近いものを形成した。
 
「――何ですって?」  
そう訊き返す彼女の目は、先ほどと打って変わって完全に覚醒していた――恐らく、怒りの力で。
一見淡白な様子の御剣から出た言葉は、対極の意味で彼女に伝わったのだろう。
 
「そんなに疲れてばかりだと、こうして時間を圧して会いに来る甲斐がないというものだ」
穏やかでない表情の冥から、誤解を取り除こうと重ねた言葉が、余計に火に油を注いだようだった。
 
「――カイがない、ですって?」  
――弁解するならば、「甲斐がない」の主体は「私」ではなく「君」だったのだが、 それも逆に伝わった可能性が高い。
 
そんなわけで、彼女は日本語ではない、普段使っている言語を撒き散らして、大爆発したのである。
 
『ここに来るための時間の調整に、毎回どれだけ腐心していると思っているのよ!』
両手に持った枕を御剣に叩きつけながら、彼女は早口で捲し立てた。
 
『そもそも私がどうしてアジア方面の仕事を積極的に続けているのか、わかっているの?!』
子供じみた口調と行動で矢継ぎ早に言い募る。
攻撃をガードしながら、御剣が時折「落ち着け」と声をかけるが、全く耳に入っていないようだった。
 
二十歳を過ぎてから、二人きりの時間でもあまりジャジャ馬には振舞わなくなった彼女だったが、
自制や判断力が低下していたのかもしれない。
その様子は、まるでメッキが剥がれたかのよう。  
『私がどれだけ楽しみにしていたと――!』
 
それまで、攻撃を真っ向から受けることをどうにか防いでいた御剣だったが
渾身の勢いで振り下ろされた言葉に、思わず体の動きが止まり――
 
「――っ!」
 
情けないうめき声。そして柔らかめの物体と人体がぶち当たる音が、ほぼ同時に響く。
 
顔面に何かがぶつかるというのは快いことではないが、そんなに痛くもなかったので
御剣は数秒で平静に戻り、眼前の物体を取り除いた。
 
その先には、振り下ろしきった体勢のままの冥がいる。
顔には“やってしまった”と見えない文字で書かれていた――言葉と行動、どちらに対してかはわからないが。
 
「――メイ」
「もう、知らない!」
 
御剣が彼女を呼ぶのと、彼女がヒステリックな声を上げて素早く布団に潜り込むのと、ほぼ同時だった。
 
「メイ」
御剣はもう一度、彼女に呼びかける。できるだけ、いつも通りの声で。
 
身体を横たえて、背を向けた彼女に近付くと、狸寝入りの息が聞こえた。
相当気まずい思いをしているのだろうな、と御剣は解釈する。
 
構わず後ろから抱きしめると、彼女は困ったように身体を捩じらせた。
 
「君が疲労で身体を壊すのではと心配だったのだが――うまく伝わらなくてすまなかった」
 
寝息が止まる。が、反応しないように努力しているらしく、それ以外の反応は見られなかった。
 
「私も君に会えるのを、楽しみにしていた」
 
そう伝えてぎゅっと腕に力を込める。
しばらく、何の反応もないまま時間が過ぎた。
 
眠ってしまったのだろうか。
そう思った御剣は、彼女を抱きしめつつどうにか顔を覗こうと体勢を動かす。
 
すると、それに抵抗するかのように外に向けた力が御剣の腕にかけられた。
 
眠っているのではなく、拗ねたままだったか。 彼はそんな風に感じたが、ほどなく、それが勘違いであったということに気付いた。
 
御剣が素直に力を緩めると、もぞもぞと彼女が動く。
顔を見せぬように努めているのか、下を経由して冥の身体が半回転した。
 
無言のまま彼女は御剣と向かい合い、彼の胸に顔を埋める。
 
言葉はないが、どうやら仲直りの印のようだった。
 
 
御剣がやんわりと抱きしめると、彼女は安心したのだろうか。
そのまま3分もしないうちに、何も言わず眠ってしまった。
 
冥の存在を腕の中で確かめながら、御剣もだんだんと安らかな気分になる。
うとうととしながら、御剣は、彼女の使う言語をある程度習得していて良かったと思った。
 
スケジュールの隙間を縫ってやって来ては、翌朝飛び出すように帰って行く彼女の姿に
御剣は心配とともに、少し不安を抱いていた。
 
――彼女は、義務的に会いに来ているのではないか、と。
そして、その背景にあるであろう要因に思いを馳せずにはいられなかった。
 
だが、そうではなかった。彼女も御剣に会うのを楽しみにしていた。
それが伝わってきて、彼は本当に嬉しかったのである。
 
 
 
 
「近々、また来る予定はありそうなのか?」
 
朝一番の便に乗るために先に部屋を出て行く冥に、御剣はそう声をかける。
こうして見送る時は、そう尋ねるのがいつの間にか慣例となっていた。
 
しかし冥はいつものように首肯することはしなかった。
 
「頻繁に来なくていいのではなかったの?」
ぷいとそっぽを向いてそう言い終わると、口をへの字に曲げている。
 
「あれは、誤解だと――」
 
慌てて言い募る御剣を見て、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「わかっているわ。ちょっとからかってみただけよ」
 
そう言い放つ彼女の表情は満足そうだったが、不意に何か思いついたようなものに変化する。
 
「――でも、限られた時間をケンカで費やすのがバカバカしいのも確かね」
「昨日のアレを喧嘩と呼ぶなら、私はむしろ歓迎だが」
 
御剣はそう応じてすぐに、何か誤解されていることに気がついた。
「いや決して叩かれるのが好きなのではない!君のありのままの声を聞けたのが嬉しかったのだ!」
 
変態を見るような視線の主に、御剣は焦り気味にそう言い募る。
その言葉を受けた方は、何故か気まずそうな顔をして一瞬だけぎゅっと目を瞑った。
 
――彼女の顔が、少し赤く見えたのは、御剣の都合のいい解釈だろうか。
 
「と、とにかく――頻度は調整するわ。特に来月は休暇でこちらに来るから、それも考慮に入れて」
 
「そうだったな」
互いの休暇がどうにか合ったので、二人は近々懐かしい顔を見に倉院の里へ行くことになっている。
 
「折角の休暇を潰さないように、しっかりと仕事に精を出すことね」
「ああ、互いにな」
 
双方が人の悪そうな表情で笑い合う。
それじゃ、と言って彼女は部屋から立ち去った。
 
 
閉じられた、部屋の扉。
 
しばらく名残惜しそうにそれを眺めていた御剣だが、
ふと、あることに気がついて小さく声を上げた。
 
 
“そういえば――”
 
 
<終わり>