「蜜月の果てに」

 

冥の父は遠き地で日々を送り、母は忙しく家を留守にすることが多かった。
それでも二人が彼女を愛していることは彼女に伝わっていたので、
冥は彼らに我侭を言わない。

我慢した分、彼女は寂しさを募らせる。
そうして溜め込んだものは全て、居候である御剣少年にぶつけられることとなった。

冥は彼が一緒に住むようになったその日から常に御剣の後ろを追い、
もしくは彼の手を引き、小さな女王様のように我侭を言い続けた。

“それを取って”
“あそこに連れて行って”
“高いところが見たいの。肩車をしてちょうだい。”

多すぎる要求に、はじめはうんざりした御剣少年だが、段々とその背景を理解していく。

“眠れないの。何でもいいわ。枕元で眠れそうな歌を歌って。”
“歌は苦手ですって?だったら面白い話でもしてちょうだい”

“……仕方ないわね、それなら……パパみたいに、おやすみのキスをして”
“そして、ママみたいに、やさしく抱きしめて……”
“私が眠るまで、ここにいて……”

7つも年下のこの少女は、肌から伝わるような愛情を求めているのだ。
たとえ両親が生きていても、どれだけ言葉で愛を伝えられても、
信じるための拠所がなく、どこか愛情に飢えているのだと。

気付いた後……はじめは同情めいた思いから、御剣は冥に向き合い始めた。
求められるままに抱きしめてやり、時に甘やかす。
どうしても筋の通らない我侭は、叱って諭す。そしてまた、抱きしめる。

今は亡き父と母から受けてきた愛情を、御剣はそのまま冥に注ぎ続けた。
その分返ってくる信頼や笑顔に、親を亡くして荒れ果てていた御剣の心も、少しずつ潤いを取り戻す。
小さな冥を抱きしめて眠る日は、悪夢を見ることもなかった。

そうして、まるで兄のような……もしかするとむしろ父親のような思いで、御剣は冥を見守り続けた。
やがて二人がそれぞれ自分の道を決め、住まう場所を違えても、その思いは変わらなかった。

冥の方も同じようで、バカンスの度に父と御剣のいる日本に遊びに来ては
我侭を言いながらも時に御剣の後を追い、夜はたいてい御剣の部屋で眠っていた。

まだ二人は共に十代で、その様子は傍から見ても、仲の良い兄妹そのものだった。

 

自称ヤタガラスの女を逃したその夜、御剣と冥は狩魔豪の屋敷で寛いでいた。
御剣はそこに居候しており、冥にとっては父の住む、第二の我が家である。

夕食が終わり、その日の事件の話でひとしきり議論を交わし……夜も更けた頃
二人は眠りにつくために、並んで廊下を歩いていた。

以前と同じように今日も一緒に眠るのだろう……
ごく自然にそう考えていた御剣は、自分に宛がわれた寝室の前まで来ると
当然のように冥を先に部屋の中へ通そうとする。

だが、冥はその場で戸惑うように動かない。
しまいには、困ったように俯いてしまった。

「メイ?」

御剣が促すと、冥が顔を上げ、キッと御剣を睨みつけた。
そして手にした鞭を振りあげる。

目が合った二人の間に、緊張が走った。

……・だが、しばらくして何か口籠もった後に、冥が再び俯いてその手を下ろす。

様子が、おかしい。

数年前……おそらく御剣が冥の父のもとで暮らすと決まったあたりから、
冥は御剣に妙な闘争心を燃やし、時に反発するようになった。
それからというもの、御剣はしばしば冥の鞭の餌食となっていたが……
今の行動や表情は、それに似ているようで、また違う葛藤のようなものが背景にあるように感じられる。

「具合でも、悪いのか?」

そう尋ねても冥はしばらく黙っていたが……
ある時意を決したように御剣の目を直視した。

「私、もうすぐ検事になるの」
まるで試験に通ることは確定事項と言わんばかりに、冥は自然にその言葉を口にした。
しかも御剣の問いに対して適切な回答ではなかったが、御剣は特に指摘をしない。
「ああ、そうだな」

「……だから、私はもうすぐ仕事をもって……名実共に、大人になるわ」
何が名実なのかはよくわからなかったが、御剣はその断定の勢いに負けて頷いた……だが。

冥が、改めて御剣を直視する。顔を少し赤らめて、恥ずかしそうにしているようにも見えた。
その視線を受けて、御剣は冥に何が起こっているのかを、突如として悟った。

「だからもう、私は……この部屋に入らないわ。」

――思春期、か……。

子供から大人への過渡期……心身が急激に変化を遂げる時期。
それは、男と女の“違い”を認識する時期がきたということでもある。
そういえば前に会ったときよりも、冥の体が曲線的なラインに変化している……
御剣はその時になって、ようやくそのことに気が付いた。

確かに、今の冥を抱きしめて眠るなど、傍から見れば犯罪もいいところかもしれない。

もう無邪気に戯れる兄妹ではいられないことを、御剣はその時、唐突に思い知らされた。

「……それは、寂しくなる」
何とか、言葉を導き出す。
「ええ、そうね……」
冥も、珍しく素直に答えた。
その様子は少し大人びて、憂いすら感じられる。

何年も手塩にかけてきたものが、いつの間にか手を離れる時期を迎えていたことに
大きな喪失感を感じずにはいられない。
突然の終焉を受け入れるため、御剣は区切りの儀式を求めた。

「最後に、寝る前の挨拶だけ……いいだろうか。」
御剣らしい遠まわしの表現だったが、冥はその意味を察したようだった。

――“パパみたいに、おやすみのキスをして”

「そうね、最後に。」
わかっているのか、冥もそれを拒まない。

御剣は、冥の前で屈むと、銀色の前髪をかき上げて額に唇を落とす。
冥が、いつになく恥ずかしそうに……目をぎゅっと瞑った。
「おやすみ」

明日からもきっと、それなりに気安い姉弟弟子の関係は続いていくだろう。
それでも、一種の別れに近い思いが、御剣の胸を揺らしている。

御剣が顔を離すと、今度は冥が御剣の頬に近付き、その唇を触れさせた。

柔らかさと温度、そしてふわりと届いた女の子の匂い。
今までは感じなかったものが突然知覚され、御剣は目眩に呑み込まれそうになる。
一瞬だけの接触が終わると、冥が後ろへと身体を引いた。

少しの距離をおいて、二人は見つめ合う。
「おやすみ、レイジ」

そう言って、冥は足早に去っていく。
その姿も、直前にはにかんで見せた表情も、まるで知らない少女のようで……。

御剣は触れられた頬を押さえたまま、よくわからない感情に支配され……しばらく動くことすらできなかった。

こうして、ある“兄妹”の蜜月は終わりを迎えた。

 

この無邪気で清らかでただ甘い……その関係が終わった瞬間。
その瞬間こそが、彼らの「はじまり」だった……

そのことに彼らが思い至るのは……まだ数年、先の話。

 

 

<おわり>