「初夏の輝石」

 

2005年 5月某日 アメリカ 某所--

 

タクシーを降りて数歩歩くと、怜侍少年は目的地に着いた。

表札には確かに、目的の名前がアルファベットで刻まれており、
目の前には細い金属で組み上げられた、荘厳な紋様の門が立ちはだかっている。

金属の隙間から中を見渡すと……門から家まで、20メートルはあるだろうか。
家屋までの道なりには、綺麗に刈り揃えられた庭が広がり敷地の壮大さと家の主の配慮の細やかさがうかがえた。

家の主の名は狩魔豪。
少年は、その娘である狩魔冥に会うために、はるばる日本からやってきた。

 

昨年から今年にかけて……父の三回忌の前後から、狩魔豪という名の男が怜侍の前にしばしば現れるようになった。
検事になりたいという怜侍の噂を聞いて怜侍に会いにきたという。

“無敗”の狩魔豪……検事を目指し始めた怜侍にとって、神にも等しい存在だった。
その人が、“何かの縁”だと言って自分の将来についての相談に乗ってくれる。
その体験は、怜侍が忘れていたはずの喜びや感動を蘇らせた。

何度も怜侍のもとを訪れ、また招きもした狩魔豪が、ある時突然怜侍に告げた。

豪には、検事になるための英才教育を受けている娘がアメリカにおり、
彼女が切磋琢磨するために、共に学ぶ同士を欲している……と。

そして、その“同士”として、狩魔豪は怜侍を選びたい。 そう彼は言った。

アメリカである程度の知識を得た後であれば、
日本に戻り、狩魔豪のもとで実践的なことを学ぶことも可能である……とまできたものだ。

正直に言うと、同士を求めているという狩魔の令嬢のことは、どうでも良かった。
ただ、憧れの人から、門下に入り最高の環境で学ぶことを誘われて、断る理由など何もない。
身寄りがいないに等しい怜侍は、とても身軽な存在だった。

すぐにでも……と、周囲の大人たちの反対や提案を押し切って
急いで手続きを済ませ、指定された日時にアメリカ行きの飛行機に飛び乗った。

それから十数時間。少年はここまできたのである。

 

覚えてきた英語をどうにか駆使して、インターホン越しに名前と用件を告げる。
自動で開けられた門の向こう側を、少年は歩き始めた。

近づくにつれ、家屋の壮大さがはっきりと実感できる。

“お父さんと住んでいた、あの家と比べても……”
心の中で、記憶の中の“家”を思い出そうとした自分に気付き、少年は頭を振る。
そのことは、思い出してはいけない。
きっと、今日も眠れなくなってしまうから。

少年は目を閉じ、深呼吸をする。
家のドアを叩く時は、落ち着いた心でいたかった。

目を開けて、10メートル先の正面を見据えて覚悟を決める。

歩き出す前に、ドアの方が先に開いた。
そして程なくして、中から女の子供が顔を出す。

子供は、怜侍と目が合うと、ドアから出て優美にお辞儀をした。

歳はよくわからないが、5歳か6歳くらいだろうか。
銀色の髪に、水色と白のフリルで構成されたドレスのようなワンピース。
すらりと背を伸ばし、右手を腰に当て、勝気そうな微笑を浮かべている。
その堂々とした姿から、この屋敷の住人であることに間違いはなさそうだった。
住人……つまり、恐らく先生の家族。

ということは……日本語は通じるだろうか。

「こんにちは」

歩み寄って、日本語で、声をかける。

「こんにちは」

やはり日本語が通じる……そう思って、怜侍は再び声をかけた。

「ぼくは御剣怜侍と言うものだ。狩魔冥さんにお会いしたいのだが。」

その言葉を耳に届いたのか、少女が目元だけ、驚いたような顔をする。

「あなたが、ミツルギ・レイジ。」

この言葉で、怜侍のことが予めこの少女にも伝わっていたことを確信する。

「そうだ」

怜侍が同意すると、少女の口元が先ほどより少し緩んだ。

「そう。……思っていたより歳を取っているのね」

少女は、新しい玩具がきたような好奇の目で怜侍を眺めている。

「……狩魔冥さんに取り継いでもらえるだろうか」

何となくいい気分がしなかったこともあり、怜侍はもう一度用件を告げた。
自分には目的がある。子供の玩具になりにきたのではない。

だが、少女はさらに楽しそうな笑みを浮かべ、こう言い切った。

「私が狩魔冥よ」

怜侍には、少女の言葉がよくわからなかった。いや、わかりたくなかったと言うべきか。
検事になる勉強をしている“先生のお嬢さん”が、幾らなんでもこんなに幼いわけがない。

からかうのはやめて、早く本人を出してほしい。
そう告げようとするが、それより先に幼女が言葉を紡いだ。

「私こそが未来の天才検事、狩魔冥よ。あなたを待っていたわ、ミツルギ・レイジ。」

驚いた怜侍の表情に、少女は満足している様子で目を細めていた。
その瞳は確信に満ちていて……怜侍は何故か、反論の余地を見出すことができなかった。

 

屋敷の女主人……つまり冥と名乗る少女の母は、家を留守にしているとのことだった。
他に挨拶を急ぐ相手もいなかったため、怜侍はまず、荷物をどこかに置かせてもらうことを望んだ。
怜侍に宛がわれる部屋の準備はすでにできている……とのことだったので、この少女が部屋まで案内してくれることとなった。

怜侍の前を先導しながら、少女は自分のことを喋り続ける。
歳はもうすぐ6つだということ。物心ついた時からずっと、この屋敷で暮らしてきたこと。

まだ完全に話が飲み込めてはいないが、この少女の話を聞いていけば、次第にわかる……はず。
そう考えて、怜侍は黙ったまま、少女のおしゃべりに相槌だけ打ちつつ後をついていった。

「母さまは留守が多いし、姉さまも外に出てしまったので、きょうだいが欲しいとパパに頼んだの。
 私の向上心の良い刺激になるような、優秀なきょうだいを。」

つまり、この小難しい日本語を操る、いかにも小生意気な“お嬢さん”の“きょうだい”を演じる代償に、
最高の環境で勉強させてもらえる……ということだろうか。
……いささか、聞いていた話と違うように思うのだが。
だいたい、コドモの相手は苦手なのに、どうしろというのだ……怜侍はいささか重い気分になる。

その時、勇ましく歩いていた少女が立ち止まった。そして次の瞬間、くるりと回って怜侍と向き合う。
階段を登りはじめていた少女は、怜侍よりも高い場所からこちらを見下ろしていた。
右手を腰に当て、左手を花のように開いて怜侍の前に腕をのばして差し出す。

怜侍の気持ちなどお構いなし……という様子で、少女は高らかにこう告げる。

「だから……あなたは、今日から私の『弟』として、ここで暮らすのよ。」

「お……弟、だと?」

7歳も年下のコドモに、「弟」呼ばわりされることに納得がいかず、怜侍は聞き返す。
少女は楽しそうに、そして不敵な笑みを浮かべながら、それに応えた。

「私はこの家の先住者だし、以前からパパに師事しているのよ。学年だって、秋には追いついているはずだわ。
そうなると、あなたが上なのは、無駄に費やしたその年齢だけよ。ミツルギ・レイジ。」

怜侍は夏明けから、こちらの学校に7年生として入学することになっている。
つまり、秋には少女も7年生……日本式でいけば、5・6歳で、中学1年生のクラスにいるということになる。

「飛び級…………。」

5歳以前に就学し、ものすごいスピード学年を上がっていっている、という可能性しか思いつかない。
そのありえなさに、怜侍はそれ以上は言葉を失うしかなかった。

怜侍のその表情に再び満足したような笑みを浮かべ、そして誇らしげに、少女は言った。

「そうよ。早く検事になって、パパの伝説を継ぐ。それが私の宿命だもの。」

アイスグレーの双眼が、きらきらと輝くように瞬いている。
一瞬、怜侍の心の中で、何かが煌くような、胸がしめつけられるような気分がした。
まるで、よく知っている何かを、想起させるような……。

だが、その思いに深くたどり着く前に、少女の声に意識を弾かれる。
少女が怜侍に歩み寄り、ぐいとその腕を引っ張った。

「さあ……早く荷物を部屋に置いて、今日の勉強を始めるわよ!
 まずはこの国の言葉を、カンペキに叩き込んであげるわ! 」

小さな淑女はスカートの裾を掴んで、軽やかに階段を駆けていく。

「こっちよ!レイジ。」

ひらひらと舞うその姿を見ながら、少年は溜息をついた。
しかし、何故か顔は綻んでしまう。
屈託なく怜侍の名を呼ぶ声が、再び耳に響いた。

誰かからこんなにストレートに名前を呼ばれたのは……久しぶりのような気がする。

……悪く、ないな。

最強の師が提供してくれた、最高の環境。そして、優秀な“姉”……勝気そうで、きらきら光る小さな女の子。

ここでの生活は、退屈なものにはならない。
騒がしいかもしれないが……昨日までよりは、たぶん、ずっと良い。

 

あの少女を見ていると……何となく、そんな予感がする。

 

 

<おわり>