「春がきたら」

 

提案に私が頷くと、御剣怜侍は私の荷物を手にとって外の方へ歩き出した。

不器用な男にしては手際良く、翌日の一番早いアメリカ便のチケットを用立て
空港に隣接したホテルの部屋を確保すると、ホテルの中にある喫茶室へ私を連れてきた。

頼んだ飲み物を待ちながら、私は流れるような手際の良さが何となく気に入らず、男に悪態をつきたくなる。

「どうせ込み入った話になるのだから、取った部屋で話せばいいのに」
つっけんどんにそう告げると、男はやれやれと言いたげに首をすくめた。

「二人きりの密室になど入れば、君が怖がるのは目に見えているからな」
「有り得ないわ」
そう応じると、男は全てを見透かしたような笑みを浮かべる。

「ならば、そういうことにしておこうか」
私がそれに何かを返すより早く、注文した品が運ばれてきた。

ほどなくして給仕がさがると、男は小声で、得意そうに語りかけてくる。

「ここは何度か利用したことがあるが、遅くまで営業している上に、広くて閑散としている。
  それに店員が適度に怠慢でな。あまり回ってこないので内緒話には向いているのだよ。」

それはホテルとしてどうなのだろう、と思ったが、言うのも億劫なので出された紅茶に口をつける。
悪くない風味が広がり、御剣怜侍がここを好む最大の理由がわかった気がした。

互いに音を立てずにカップをソーサーに置くと、御剣怜侍は私に声をかける。
「少し、質問をして良いだろうか」

「どうぞ?」
途端に男の顔から、紅茶を愛でる時の緩さが消え去る。
どうやら、話は本題に入るようだ。

「私が君の連絡先を訊いたら、君は全く別のことについての謝罪を始めた。その理由を教えてもらえるだろうか」

「――連絡先が必要で、話しておくべきことが残っているとすればその話ぐらいでしょう」
私がそう応えると、なるほど、と男が呟く。

彼はそれから少しの間、考え込むように眉間に皺を寄せ、しばらくしてから口を開いた。

「――その返答に対して、私はいくつかの点で異議を唱えねばならないが、まず一つ」
男は、まっすぐに私の目を見て言葉を続ける。

「私は純粋に、これからも君と連絡を取り合える手段を確保しておきたかったのだ。
  例えば元気にしているかと気になった時に、気軽に問いかけられるようにな」

落ち着いた調子の、だが気安過ぎる内容の言葉に苛立ちを覚えて、私は言い返す。
「気軽に連絡を取るというのも、どうなのかしら」

すると、男は困ったように笑顔を浮かべた。
「相当、“あのこと”を気にしているようだな」

――気にせずにいられるわけがない。

この男が抱えてきた肉親を殺されたことによる痛手を、犯罪に対する憎しみをずっと見てきたのに
よりによって、その罪を犯した人間が、私が――恐らく彼も敬愛していた、私の父だったなんて。

考えた通りのことを伝えるべく、私は口を開いた。

「――気にせずにいられるわけがないでしょう。
  うちの父が、レイ――」

だが、うっかりと名前で呼びそうになって、口を閉ざす。
目の前の男をどう呼んでよいかわからなくなって、私は内心で大いにうろたえた。

今までは、意地になってフルネームや乱暴な二人称を使っていれば、とりあえず問題なかった。
その場にいなければ名前を呼ぶこともできたけれど――もう直接、昔のように親しげに名前を呼んではいけない気がした。

「昔の通りに、名前で呼んでくれればいい」
私の心の裡を見抜いたかのように言葉をかけて、男は少し寂しそうに笑った。

「だが――私のことも父親のことも、昔のように呼べなくなってしまったのだな」

確かに、成歩堂龍一の前ですら“パパ”と呼べた父のことを、私はこの男の前ではそう呼ぶことができそうにない。

「貴様だって、それは同じでしょう」
御剣怜侍も、私の父のことを、もう“先生”と呼ばないだろう。

親しく“レイジ”とも、柔らかく“あなた”とも呼べずに、結局乱暴な呼び方を選んだ私をしばらくじっと見てから、
御剣怜侍は仕方なさそうに息をついて笑った。

「気にするなとは言わないが、君からよそよそしくされるのは痛手が大きい。」

私が何も返事をせずに紅茶に口をつけるのを眺めながら、男は勝手に言葉を続けた。
「15年もの間、同門の弟子として励み合ってきた仲だろう」

「――その前提自体が嘘で埋め尽くされた幻のようなものじゃない」
吐き捨てるような気持ちでそう言い放つが、狼狽するかと思っていた男は意外と穏やかだった。

「嘘で幻、か。」
「――どんなに言い繕ったって、過去は変えられないもの」

「確かに、君の父親がしたことは変えることのできない事実だ。
  だが過去を変えられない以上、私と君の間にあったものもまた、変え難い事実だとは思わないか?」

私と、御剣怜侍の間にあったもの――
「君がいてくれたことで、私はずいぶんと救われた。君といると私は、その――そうだな、とても幸福だった」

「――異議あり」
この男にしては歯の浮くような、けれど十分にたどたどしい台詞を、私は全力で否定する。

「貴様は私と接する時、いつも面倒臭そうにあしらっていたじゃない!」

嫌われていたわけではないと知っているけれど、それなりに大事にされていたとも思うけれど――
置いて行かれるまいと必死で喰らいついていく私への、御剣怜侍の対応はいつもドライだった。

それなりに大事に扱うのは、師匠の娘だからに過ぎないのだと私が感じるくらいには。

やや声を荒げて私が反論すると、男は困ったように視線を彷徨わせる。
「――私も相当捻くれていたからな」

あの頃は自分を最悪の人間だと思っていたし、親愛にどう返せば良いのかわからなかったし――
などと、ぼそぼそと言い訳のような言葉が紡がれる。

しばらくぼつぼつと言った後に男はしばらく黙りこむ。
そして、ほどなく意を決したようにこちらに向き直ると、男は肩を上げて真摯な表情で両手を膝の上に置いた。

「その、だから――自分ばかり追いかけて何も返ってこないような経験をさせて、君には済まなかったと思っている。」

こちらが謝らなければならないはずの場で頭を下げられて、私はどうしていいのかわからなくなる。

男の方を茫然と眺めていると、顔を上げた男とばっちり目があった。
彼は、私の視線に気づくと、真摯な目でこちらをじっと見てくる。

思わずどぎまぎとして、私は背中の方だけでこっそりとうろたえた。
「別に、もういいわよそんなこと――第一貴様が謝る必要は」

「私はずっと、」
ただ、慌てながら私が口にした言葉は、御剣怜侍のやや大きな言葉に続きをかき消されることとなる。

「ずっと、君のことが好きだった」

あまりにも唐突な言葉に、私は反応することすら忘れてしまう。
その間に、男は、もちろん異性としての話で、などと一生懸命に言葉を重ねていた。

「好きだったからこそ、余計に逆の素振りを見せていた面もある。
  だが、それで君がどんな思いをするのかを考えたことがなくて――」

昔の私達の関係は、半分姉弟のようであり、半分は恋人の真似事のようなものだった。

だがそれは、私が“師匠の娘”であることと、この男の持つ絶望と孤独を逆手にとってコイビトごっこの相手をさせていただけで
御剣怜侍は、本心では私のことを、せいぜい“手のかかる煩い妹”程度にしか思っていなかったはずだ。

「去年、君が日本に来たことを知って、苦悩している君の力になりたくて戻って来た。
  それ自体は、家族のように付き合いの長い友人に対する情のようなものに動かされた形なのだが――
  この数日、君と接していて確信した。」

男の目は、ひどく真剣だった。

「私は今も、君のことが好きなようだ」

その姿をぼんやりと眺めながら、私は思う。
何も知らずにこの男を追いかけていた頃ならば、どれだけ嬉しい言葉だっただろう、と。

けれど、今はもう――

「今更だわ」
しばらくの沈黙の後、そう答えるのが精一杯だった。

「すまない」
男は、視線を落としてぽつりとそう呟く。

「あの頃は、どうしても言えなかった。」

この男は、いつか言っていた。
――自分には破滅を孕んだ秘密がある。だから君を巻きこめない、と。

今思えば、それが何を意味しているかも、その秘密とやらが誤解だったことも私は知っている。
そして、それら全てと絶望を彼に与えたのが、誰でもない私の父だということを。

「それこそ、貴様が謝ることじゃないわね」
「――すまない」
いろいろな意味を持つそのフレーズは、今は感謝のために使われたような気がした。

それからはしばらく互いに無言で、すっかり冷めてしまった紅茶を啜る。

カップから紅い色が殆ど消えてしまった頃に、男の方が再び口を開いた。
「話は戻るのだが……」

私が視線だけついとそちらへ動かすと、彼はそのまま言葉を続けた。
「君さえ良ければ、時々連絡を取って近況を話したりしたいのだが――どうだろうか」

一番初めに呼びとめられた件まで話が戻り、私は今までの流れに思いを巡らせる。

これらの真摯な様子が本心だとすれば、ではあるけれど――。
男はどうやら、私に憎しみを抱いているようではないようだ。
むしろ私個人に対しては、子供時代の仲間に対する情の方が強く働いているらしい。

少なくとも私が日本にいる時は、悪夢に苦しんでいる彼のケアをするのが私の仕事だった。
彼が私を好きというのは、恐らくその影響が残っているせいである可能性が高い。

そして彼が特に望まないと言っても、私は父の代わりに何らかの形で償わなければならないと思う。
父が彼の人生を狂わせた分の一部だけでも、これからの人生をこの男が幸せに生きていけるように。

だとしたら、私の答えは決まったようなものだ。
そう思いながら、私はカップを置いた左手を何となく右肩の近くに触れさせた。

「貴様がそう望むなら、こちらとしては――」
「ま、待った!」

相手が望んでいる答えを出そうとしているというのに、発言を途中で止められる。
思わず気を悪くしてじろりとそちらを睨むと、男の方もやや怒っているように見えた。

「私としては、できれば君とやり直したいのだ。
  それが無理でも、季節の挨拶状くらいは屈託なく贈り合える間柄でありたい。」
男はヒートアップして言葉を捲し立てている。

「それなのに――生贄に捧げられる生娘のような顔で了承しないでくれ」

私は男のやや感情的な言葉にしっかりと耳を傾けながらも
屈託なくと言っても、事件の前後にあたるクリスマスと正月はどうするんだろう、などとぼんやりと思った。

男は今にも立ち上がらんばかりの姿勢で私をじっと見ていたが、
しばらくして、疲れたような表情で大きく息を吐いた。

「――どちらにしろ君が苦痛を感じるならば、私が君と関わるのは明日君を送り出すところまでで
  その後は互いの健勝と検事同士としての再会を願うだけに留まるが――君はどう思う?」

そう問いかける男は、実に年長者らしい落ち着いた風を装っているが、やや緊張しているのが伝わって来る。
「何より、君がどうしたいかが重要だ。正直なところを教えてくれ。」

私がどうしたいかというと――

――たぶん私は、この男に未練がある。
彼が求めているのだとしたら、どんな形であれ繋がりを残しておくことは吝かではない。

けれど、それが許されて良いのかと考えてみると――

私がそんな風に考え込んでいると、御剣怜侍はふうと溜息をついた。

「――わかった」
その額には器用にも、ややがっかりしたように眉が下がり、その間に皺を寄せられている。

「私はもう何カ月も考え抜いた上で答えを出しているが、君は違う。
  このままだと、どちらにせよ君自身が納得できる答えを出すことは難しいだろう。」

男はほんの少しだけ空を眺めて考える様子を見せた後、すっと私に視線を戻した。

「そうだな、あと一年ほど距離を置こう。――その間、私は君と接触しないから、君は自由に生きればいい。
  そして1年経った時に、もう一度会おう。その時に、答えを聞かせてほしい。」

どうだろう?と続けて問いかけてきた男に、私は間を置かずにうなずいた。
「わかったわ。次の春がきたら、もう一度会いましょうか」

――ただし、それには条件が必要だと思う。
「けれど、考えるのは貴様も同じよ」

そう告げると、男は何のことだと言いたげに私をじっと見る。
「貴様も、一年間じっくりと考えて答えを出しなさい。」

私はもうすでにじっくりと考えたのだが――と呟いた男の声は聞こえなかったことにした。

本来、狩魔を忌避して離れていくべき理由を持つのは、彼の方なのだ。
どうやら見過ごせないくらいに見苦しいことになっていた私を見兼ねて出てきた彼に
考え抜いて答えを出す余地があったのか、甚だ疑問だった。

「――だが、確かにそうだな。」
私が黙っていると、御剣怜侍は勝手に納得して頷いた。

「君だけに選択の責任を負わせるのはフェアじゃない。」

そう続けてからこちらに向き直り、まだ残っていた紅茶を一気に飲み干した。

「私もあと一年、自分の道を行きながら考えてみることにする。
  次に会った時、互いに交流を望めば、そのようにする――それでいいか?」

「ええ、そうしましょう」
私はそう応えて、しっかりと頷いた。
 
 
「しかし、貴様も本当に馬鹿ね」

店を出たところで私がそう呟くと、男はどういう意味だと言いたげに私の方をじっと見る。

「友情と恋愛感情だと、後者の方がハードルが高いのよ?
  一度駄目になったものを繋ぎ直すのに、ハードルが高い方を持ってきて、拒否されたらどうするの」

そもそも私が今も貴様を好きでいるかどうかわからないのに、と付け足すと、男はふむ、と考え込んだ。

それから少しして、何か思いついたように私の方を見る。
「――駄目になったもの、なのだろうか?」
「何ですって?」

「君は、私を捨てに来たのだろう?」

私の“復讐”は、この男と決別するためのものだったわけだから、言い換えればそういうことかもしれない。
「――そうとも言うわね」
そう応じると、男は何故かとても安堵したように笑顔を見せた。

「君にとっての私が、ああでもしなければ捨てられないモノなのだとしたら――
  まだ、間に合うかもしれないと思ったのだよ」

そう言って穏やかに笑う彼は、本当に長年の憑き物が落ちたようだった。

私は、男の言い分を否定しなかったが――
「それでも、やっぱり馬鹿だわ」

「――そうか?」
「せっかく、こうして過去から解放されたというのに、そこを直視せざるを得ない方に首を突っ込むなんて」

男は笑うだけで、それには直接は答えようとはしなかった。
 
 
翌朝私を見送った男は、最後に「それでは、次の春に」と言って笑った。

同じように答えた私がちゃんと笑えていたのかは――正直なところ、自信がない。
 
 
<おわり>