「これから」

 

望んだ形ではないけれど、決着はついた。
――私が御剣怜侍に抱いていた拗れたモノは、綺麗に清算されたのだ。

悪あがきだらけでみっともないことばかりだった私の初恋にも、ようやく幕をおろすことができる。
そのことに少なからず感傷を覚えながらも、私は笑顔を浮かべて自分の道を踏み出そうとする。

御剣怜侍や父――拠り所だった存在への依存を断つことに対する不安がないわけではないけれど
これで私は過去を捨てて、新しい自分として生きることができる。

御剣怜侍は同じ道の上にいるのだから、いつかまた出会うはずだ。
――勝負は、これから。

次に会う時には堂々と渡り合えるようになっておかなければ――
そう思いながら、後腐れのない決着を望んで駆けつけたのであろうその男に、背中を向けて歩き出す。

だが、数歩もしないうちに大きな声が響いた。
「――待った!」

聞き慣れたその音に振り向くと、全くすっきりした表情をしていない御剣怜侍が
つかつかとこちらに向かって来る姿が飛び込んできた。

「な、何よ」
その勢いに押され、私は思わずたじろぐ。
彼は眉間に皺を寄せて、深刻そうな顔で私を見下ろす。

しばらく何か言いたそうに考えている様子だったその男は、飛行機の行き先を示す掲示板を見ると、
何かを思いついたようにこちらに向き直った。

「行き先は、アメリカではないのか」
レイジの言うとおり、行き先は欧州のある地方だった。

「この時間はアメリカ行きはないのよ」
チケットはとにかく日本を出たくて、適当に取ったものだ。

「では、そこを経由して元居た土地に戻るのだな」
「特に決めていないわ」

アメリカを離れる時、かなり無理を言って仕事を辞めている。
同じ土地で検事として復帰できるのかは、私の一存で決められることではなさそうだ。

そのことを目の前の男に説明すると、男は渋るように唸り声をあげる。
「それでは、昔住んでいた家に戻るとは限らないのか」
「そういうことね」

「では、君と連絡を取れる手段は携帯だけということか」
問いかけとも独語ともつかない調子の言葉の一部に引っかかりを感じて、私はそのフレーズを繰り返した。

「連絡?」
――もうおそらく、連絡が必要な関係でもないのに?

「勝負はこれから、なのだろう?」
よほど不思議な顔をしていたのか、私の反応を見た男が親しげに苦笑いをした。
「ならば、簡単に互いの状況を知ることのできる手段がある方が便利だと思うのだが」

個人としての繋がりはともかく、少なくとも同じ道を歩く人間として繋がりを断つことを、私は選ばなかった。
だとすれば、名刺交換でわかるレベルの連絡先は互いに知っていても差し支えないのかもしれない。

ただそう考えると、私用の携帯だけが連絡手段というのもどうかと思う。
だから、次の仕事に就けたら、執務室宛てに名刺を送る――そう伝えようとしたが、
実際にはそれより早く、男が笑顔を浮かべて言葉を続けた。

「それに、君とは個人的に話したいことがまだまだあってな」

――話したいこと?
何かあっただろうかと十数秒考えて、私は不意に思い出す。

本来ならば“復讐”よりも先に、私がこの男にしなければならなかったことがあった。
そして、それはまだ為されていない――と。

恐らく忘れたかったからだと思うが、そのことが完全に頭から抜け落ちていた。
一番大事なことを追いやって“悪くない終焉を迎えた”と思っていたムシの良さが、どうしようもなく恥ずかしい。
自分の体温がみるみる上昇するのがわかった。

私と御剣怜侍の間に残った繋がりは、シンプルなものだ。

加害者側の人間と、被害者。
彼にはこちらに償いを求める権利があり、こちらは彼に応える義務がある。

まずは誠意ある謝罪をすべきだ。
できるだけ冷静に、そこに私情を挟まないように。

そう言い聞かせながら、私はできるだけ無心に息を吸い込んだ。
ピリピリとした背筋の痛みからは、できるだけ意識を外すようにする。

「20年近く、あなたとあなたのお父様には取り返しのつかないことを――」

死亡した加害者の娘として、生き残った被害者に謝罪の言葉を。
そしてその上で、少なくとも二人分の人生を狂わせたことに対する、然るべき補償を。

そう思って頭を下げようとしたところ、慌てた様子の男が両手を伸ばしてそれを止めた。

「ま、待ちたまえ――突然、何をするのだ!しかもこんな往来で――」
慌てた男の表情を不思議に思いながら、私は問いに答えるべく口を開く。
「もちろん、父がしたことに対する謝罪を……」

すると男は焦りのような、失望のような怒りを表現する。
「どうして、この流れでそうなるのだ!」
どうやら、お気は召さなかったようだ。

「確かに謝罪では、過去は変えられないし、何一つ埋め合わせることもできないわね」
「メイ、私は」

男が懸命に話を遮ろうとするが、私も内心では同じくらい必死で、それを回避するべく言葉を続ける。
――もう搭乗の時間が迫っている。とにかく言うべきことだけは、伝えておかないと。

「できることは賠償くらいしかないけれど――
  そちらの希望する形に沿うように、最大限の努力をするつも」
「メイ!」

だが結局、男の緊迫した大声に途中で遮られた。

――声の大きさ故か、ざわめいていたはずの雑踏がしんと静まり返っている。
周囲を見渡すと、係員を含めたほぼ全員が、驚きや興味をたたえた視線をこちらに向けていた。

私だけでなく、声をあげた御剣怜侍も、どうやらそのことに気付いたようで――
私達の間は、居たたまれない空気に包まれる。

そしてそこに割って入るように、再度搭乗を促すアナウンスが降り注いだ。
タイムリミットがきたようだ。
「――もう、行かなくては。」

これ以上の話は後日、場を設定するなり代理人を立てるなりして続ける必要があるだろう。
どちらにしろ、次に会う時にはこんなに身近な存在ではなくなっているはずだ。

テーブルに隔てられた距離が、重い気分と共に想像される。
私がそんなことに思いを馳せていると、男の方は「確かに時間だな」と呟くように言った。

しかし言葉とは裏腹に、男の手は荷物を持った私の左腕をがっちり掴んでいる。

「――だがどうやら、このまま行かせるわけにはいかないようだ」
男の顔は、窮地に立たされたはずの青いスーツのように、ふてぶてしい笑みで満ちていた。

怒りか開き直りか判別しがたいその様子に、私は後ずさりたい衝動に駆られたが
腕が自由にならない以上どうしようもない。

「ちょっと、御剣怜侍……」
私が咎めるように口を開いても、とりあえずは男の様子に変化がなかった。

「君とは、今すぐにじっくりと話をしておく必要性を感じるのだ――それに」

だが、そこで少し男の表情が真顔に変わる。
この表情をよく知っていることに、ほどなくして思い当たった。

――“弟”の顔だ。

「命に別状ないとはいえ、君は負傷したばかりで片手の自由が利かない。
  そんな状態で慣れない土地に行くのは容認しがたい」

何の柵にも捕らわれることなく発されたその言葉は、さしたる抵抗もなくストンと私の心の中に落ちていく。

そして、その言葉と懐かしい表情は、特に急ぐ旅でもなかった私から
次の提案に対する抵抗や固辞をする意志や力を、あっさりと抜いていった。

「この便は見送りたまえ。代わりのチケットはこちらで用意するから」

<おわり>