「ラストシーン」

 

私とメイは、よく「兄妹」と見做される。
実際私たちは、兄妹のように過ごしてきた。

ただ、血縁関係にあるわけでも、一年中一緒に生活していたわけもなかったため
私たちはお互い、他人であることをわきまえて接しているいる節があった。

特に彼女にとって、私は「父の内弟子」で自分より後に師事した「弟弟子」――下の立場であることは間違いなかったのだろう。
彼女は常に私の前では背筋を伸ばして凛としており、弱い姿など見せぬように努めているようだった。

父親に叱られたり癇癪を起こしたりして涙ぐむことはあったが
彼女がこんなに無防備に、感情を顕わにして泣いている姿を、私は見たことがない。

初めて耳にした本音も、ぽろぽろと流れていく涙も、いつになく年相応に見えるその表情も
私をひどく動揺させるには十分すぎるものだった。

後から思えば抱きしめて胸を貸してやれば良かったのだが、その瞬間の私は、完全にうろたえていた。
――もう、どうすればよいのか、全く皆目見当がつかない。

しばらく硬直した後、私はとりあえず涙を拭いてやればいいことに気付くことができた。
しかし、 ハンカチは先程手洗いに使ってしまった。それで顔を拭かせるのは、心苦しいものがある。

慌てて貴重品を持ち歩くための小ぶりの鞄を漁ると、中から白くヒラヒラした布が数枚見つかる。
言うまでもなく、常備しているクラバットの替えだ。

水を吸いにくいかもしれないが、使用済みのハンカチよりはマシだろうと差し出すと
泣くのをこらえようとしてうまくいかない様子の顔が白布に視線を泳がせた後、ゆっくりと下を向いた。

パタパタと音を立てて、涙の粒が床に落ちていく。

気まずくて顔を合わせにくいのだろう。
そうして泣き顔が見えないようにしてから、メイの負傷した方の腕がゆっくりと動かされる。
利き手には荷物や鞭を持っているので、手を上に伸ばして受け取るのは確かに大変そうだった。

「その、そちらを預かろうか」
そのことに気がついて聞いてみても、彼女は首を振ってそれを固辞するばかりである。

だったらと、私が一歩近付いて、彼女が差し出そうとしている手に白い布を持たせると
しゃくりあげるので精一杯の声が、「あ」の音だけ発してそれを握りしめた。
その後に動かされた唇の動きは、短い感謝の言葉に似ていたような気がする。

できるだけ二の腕を動かさないようにしながら近付けた白布で、そっと片方の目を押さえると
零れ落ちたものが、全てその中に吸い込まれていく。

そんな彼女の様子を眺めているうちに、私の頭は落ち着いて、平静さを取り戻していく。

重圧の中で生きてきた彼女が18年間自分の中だけで抱えてきたものを、共有することができた。
絶対に見せようとしなかった弱さを、私の前で見せてくれた。

そうした事実が、だんだんと私の心を温かくする。
同時に、私の中で眠らせていたものがゆっくりと大きく波打つような感覚が広がった。

確認などしなくても、私はその感情の正体を知っている。
 
 
それからはただひたすら、彼女の呼吸が落ち着くのを待つ。

時々治まりかけては、また何かを思い出したかのように元に戻るのを何度か繰り返した後、
落ち着いた様子のメイが大きく息をついた。

――そろそろ、大丈夫だろうか。
そんな風に私が話しかけるタイミングを見計らっていると、私たちの頭上から、単純なメロディが降り注ぐ。

12番ゲートの旅客に、搭乗を促すための館内放送だった。

メイは、革手袋をめくって時計を確認すると、少し顔を上げて表情を引き締める。
殆ど引いていた涙を仕上げのように拭うと、ゲートの表示盤の方に視線を移していった。

少し目は赤かったが、その顔は私が良く知っている、通常の彼女のものに切り替わっている。
確かめるまでもなく、もうすぐここを発とうとしているのは明らかだった。

「また、会えるだろうか?」
名残惜しさから、私はまず、そう声をかける。

私にはまだ、彼女に話しておきたかったことがたくさんあった。
それは今すぐ伝えなくてもいいことだが――そうする機会を繋いでおく必要だけは感じていた。

「――そうね」
彼女は、綺麗に笑っていた。

憑き物が落ちたように、自然に笑うことができている。
そのままの表情で、彼女ははっきりと言葉を放つ。

「また会いましょう――いつかまた、裁きの庭で。」

彼女の発した言葉は希望に満ちあふれている。
しかし、私が求めていた未来とは違っていた。

まるで、映画のラストを見ているようだ。

結ばれることのできなかった男女が空港で言葉を交わし、あてのない再会を約束してそれぞれの生活へと戻っていく。
もう互いの人生が交わることがないのをわかっていながら、それでもハッピーエンドとして物語は終わっていくのだ。

そんな綺麗な終焉のシーンのヒロインたる彼女はすっかり穏やかで、ほんの少し安堵の表情が浮かんでいた。
決着がついたことで、肩の荷が下りたのだろう。

このまま頷いてしまえば、私達は完全に終わりを迎えることになりそうだ。
その表情を見て、私はそんな風に感じていた。

彼女は清々しい表情と同じ気持ちで飛行機へ向かい、住み慣れた土地へと戻っていく。
きっとそこで自分を立て直して、新しい人生を歩んでいくのだ――私の、知らないところで。

そしていつか、法廷の同じ側の職務の人間が集まるような場所で、偶然すれ違って会釈をする。
私と彼女の関係はそれくらいのものになってしまう予感がした。

――少なくとも彼女は、このままそうなるように話を持っていこうとしているのだろう。

彼女にとっては、きっとそれが一番良いのは理解している。
私の存在は否応なく、彼女に大好きだった父親の闇を直面させるからだ。

私は彼女から多くの幸福を与えられたが、彼女のことを幸福にはできなかった。
彼女には、ずっと暗くて不機嫌な顔をさせてばかりだ。

やはり、それならば――と、私が何も言えず、動けないままでいたところ
彼女はどうやらそれを、彼女の言葉に対する肯定と解釈したらしい。

もう一度、今度はよく知っている高飛車な笑みを浮かべると、メイは荷物を持ち直してくるりと踵を返す。

「では、またね」

そう告げて歩きだした彼女は、もう振り返らない。
そのまま搭乗口へと向かって、悠々とした足取りで進んでいってしまう。

けれど――違う。
これは私の望んでいる結末ではない。

私にはまだ、彼女に伝えておきたいことが山ほどあるし
できれば先程のような厳しさだけではなく、もっと優しさや愛情を与えてやりたい。

たとえ結末が変わらないとしても――私の願いを伝えてからでも、諦めるのは遅くない。

そう思った私は、何も考えずに大きな声で叫んでいた。

「――待った!」

法廷での掛け合いのような大声は多くの人間の足を止め、振り向かせてしまったが
そのことは、敢えて気にしないでおくことにする。

 

<おわり>