「Prologue」

 

鏡に映った私は、日中よりも幼い素顔をさらしていた。

いつになく強い苛立ちを覚えた私は、
目の前のソレに勢いよく水を投げつけて、その像を視界から消す。

幼さは、無力と無知の象徴。
だから私は、それを許容しない。

そして、“幼い自分”から連想されるもの――
背を向けたはずのものが、今朝に限って振り払えない原因は、わかっていた。

昔の夢を見た。
父と、父の弟子だった男と過ごしていた、幸せな時間。
もうすでになくなってしまった、私の過去――

父の弟子だった男との再会は、思っていたよりも私に動揺を与えているようだ。
少なくとも、夢に見るくらいは。

昨晩突然現れ、何事もなかったかのように親しげに話しかけてきた
あの男の精神構造が理解できず、脳裏に男の姿が未だに焼き付いて離れなかった。

――考えるな。
思わず首を横に振って、私はその残像を頭からふるい落とす。

あの男の存在に、振り回されてはいけない。

今日は朝から検事席に立つ。
大きな事件で、しかも私にとって「特別」な仕事だ。
私が望み続けていた願いを、この手で掴むことができる、特別な法廷。
この約1年で、たった3度しか回ってこなかったチャンス――

私は今日、己の目的を達成する。
何が何でも、今度こそ、必ず。

そう誓って向かい合った鏡には、メイクを済ませていつもの私の姿が映っていた。
無力なコドモではない、“完璧な天才検事”がそこにいる。

あなたなら、大丈夫――ひとりであの場所に立っていても。
悠然と、あの忌々しい弁護士に対峙し、勝つことができる。

――“あの男”が、その背後にいようといまいと。
 
 
けれど、着替えを済ませて外に出た私は、迎えの車の前で佇む男を見て、体が凍りついた。

そこにいたのはいつものヒゲではなく、
さっき脳裏から消し去ったはずの男、御剣怜侍だったから。
 
***
 
昨夜――日付が変わって数時間後、狩魔冥は着替えを取りにいくと言って自宅に戻ったらしい。
そして検事局では、そのまま仮眠をとって朝に裁判所へ直行する彼女のために、車の手配がなされていた。

私は復帰したばかりで仕事もなかった――というよりも入れていなかったので
自ら彼女の送迎を買って出たわけだが。

私を見つけた彼女はほんの少し動きを止めて、顔を強ばらせた。

それでもすぐに、何もなかったかのように歩き出して、
つんけんとした視線を私に向けてくる。

「どうして貴様が、ここにいるの」
車自体は彼女が良く利用している警察車両だったからだろう。

下手をすると無視して通り過ぎるかと思われた彼女は、
私の前で立ち止まると、硬質で余所余所しい態度と声で私にそう問いかけた。

「挨拶を飛ばして減らず口を叩くのも、昔と変わらないな」
一緒にいた頃の姿と重なって、思わず私は昔のように軽口で親しみを表現したが
昔と違って、彼女はそれに応じようとはしなかった。

「そんなことは、どうでもよろしい。」
心底どうでも良さそうにそう流すと彼女は私に質問を投げかける。

「こんなところに貴様がいる理由を訊いているのよ。」
どうやら、私がここにいることが、相当ご不満らしい。

「君の送迎をしていた刑事を、君はどうした?」
そう聞き返すと、彼女は昨日解雇を言い渡した男のことに思い至ったらしく、
ぐっと喉を鳴らして動きを止めた。
「彼が気まずそうにしていたのでね。代わりに私が参上した次第だ。」

「――別の車を呼ぶわ。」
今日の迎えが私だと知った彼女は、携帯電話を取り出して言葉どおりに行動しようとする。
私はそれを止めるべく、彼女に声を掛けた。

「今日は運転に回す人手がないことを、君も知っているはずだ」
「――業者を呼ぶから、心配ないわ。」
「その荷物を部屋まで運ぶのは、業者よりも同業の私の方が便利だと思うが?」

彼女が持っているのは、通勤用の鞄だけではなく、
裁判で使うのであろう鍵付きの大きな鞄と、着替えの入った車付きのトランクまで準備されていた。
どうやら数日間、検事局に泊まり込むつもりでいるらしい。

「検事局の受付に預けさせるから、問題ないわ」
「だが、そこまでするのは、時間が勿体なくはないか?」
そう問いかけると、彼女は若干気まずそうに私から視線をそらす。

「賢明な君ならば、多少気に入らない相手でも利用することの合理性を
  当然理解していると思うのだがね」
畳みかけるようにそう告げると、彼女はうんざりしたように溜息をつく。

「余計なことをしたら、運転中でも鞭を飛ばすわよ」
彼女が折れたことに内心安堵しながら、私は後部座席のドアを開けて彼女に応じる。
「ご忠告、覚えておくことにしよう」

今は何もしなくていい――そばにいることができさえすれば。
そばにいれば、何かが起こった時手を貸すことができる。

恐らく一筋縄ではいかない事件と法廷。
そして、虚勢を張ってはいるが、恐らくそんなに大丈夫ではない彼女。
不穏な要素はいくらでも見え隠れしていた。

彼女に何らかの限界や窮地が訪れた時、手を貸すことができればいい。
そのために、このタイミングで私は戻ってきたのだから。

私が懸念するような事態が起きなければ、それはそれで構わない、というよりも、それが一番だ。
誰かが心配して手を貸す心積もりで見守ることだけでも、事態を深刻化させないための予防線となりうる。

私は不穏なものを感じつつも、そんな風に、何も起こらない可能性も視野に入れていた。

それだけに夢にも思っていなかった。

――あんなに早く、予期しない形で深刻な事態が発生するなどとは。

 

<おわり>