「背中」

 

その日の昼下がり、地震に遭遇したレイジはあっさりと調子を崩し
夜の7時には自室に引き籠って深酒を呷っていた。

私が酔い覚ましなどの準備を終えて彼の部屋に踏み込んだ時には
そこには目だけがギラギラと光り、鈍く動く大きな泥人形ができあがっていた。

酔いを覚ますようにと叱咤して、泥のような彼の隣に座ると
参り切ったその男は、私の肩にトンと自分の体を乗せてきた。

素面の時には絶対に見せない弱さを、彼はこういう時だけ私に預けてくる。
泥酔や寝惚けた時にだけ見せる、レイジの素直な一面だった。

こうやってレイジは、何とか過去の記憶に揺さぶられた自分を立て直しているらしい。
ただ――昔はこれで済んでいたので、私も快く相手をしてあげていたけれど、
最近はそうでもない様子なのが、私の胸のあたりに引っ掛かっている。

瓶に残ったお酒の量から考えると、摂取するアルコールの量が明らかに増えている。
――以前なら潰れていたはずの量を超えても、今日は覚醒して飲み続けていた。
どうやら、頻繁に飲んで許容量を鍛えていることがこの証拠から推測できた。

そして、それだけではなくて――ここ数年、時折レイジから香水の残り香がするようになった。
――もちろん、レイジの匂いとは違うもの。
問い詰めてみるとはっきりは答えなかったけれど、
どうやらふしだらな女遊びを繰り返していると認めるような返答があった。

前者は体を壊すことだし、後者も下手をすると体を壊すし、もっと下手をすると社会的な信用も失いかねない。
まるで自分自身を悪い方向へ向けるかのような行動が続いている。

このままだと、この男は本当にダメになってしまうかもしれない――
そんな危惧が、傍で見ている私の中に渦巻いていた。

その不安の大きさと、相手が泥酔して今にも意識が落ちそうな様子だったことも影響していたのか
私は何となく、ぽつりと呟いた。

「私、日本の検事局に移ろうかしら」
それは特に実現する予定のない、単なる思い付きだった。

すると、まどろんでいる男がのそりと身動ぎし、回らない口をゆっくりと動かした。
「アメリカの方を、辞めるのか?」
「その時は、きっとそうなるわね」

私がそう応じると、レイジは咎めるように言葉を返す。
「それは勿体ない。――どうして、そんなことを言い出すのだ」
「レイジのお守りをする人間が必要だからよ」

私がそう告げると、レイジは私から体を離した。
「そんなもの、私には必要ない」

言葉ではそう言っていても、私が冷水を満たしたグラスを差し出すと、彼は一気に中身を飲み込む。
「客観的に見て、どう考えても必要だわ」
レイジは私にグラスを返しながら反論した。
「いや、必要ない」
「――必要よ」
言動の矛盾に何となく苛立ちを感じながら、私は受け取ったものを手元のサイドボードに置いた。

それから、「必要ない」「必要だ」というやりとりをどれだけ繰り返しただろう。
もともと軽い気持ちで言ったつもりだったのに、私はもはやその言葉を取り下げることができなくなっていた。
酔っ払いの方も、いつもより気が短いらしく、イライラとした様子で自分の主張を繰り返す。
その態度に余計イライラして、私も徐々にボルテージを上げていった。
レイジもそれに同調して、だんだん声を荒げていく。

「必要ないと言っているだろう!」
「必要なのよ!そんな風に性格が変わるまで飲んだくれているのが、何よりの証拠でしょう?」

何十回目かに私がそう指摘すると、とうとうレイジがぐっと喉を鳴らして黙り込んだ。
どうやら、深酒が過ぎることに自覚はあったらしい。

勝負あった――当初の目的を忘れて私が内心でそうほくそ笑んだ時、
まだ諦めていなかったらしいレイジが、それまでと違う言葉を投げかけてきた。

「第一、どうして君は私の面倒をみようとするんだ!放っておけばいいだろう?!」

相変わらずボルテージが上がったままで叱責するような声に呼応するかのように
私も頭を沸騰させたままの状態で言い返した。

「だって、仕方ないじゃない!気になるんだもの!
  地震のことも、悪夢のことも、深酒も、女をトッカエヒッカエしていることも!
  アメリカでもずっと、レイジのこと、ずっとずっと気になって仕方ないんだから!」

――そう、私はずっとずっと、レイジのことを――

一気に叫んでレイジの表情を確認した私は、一瞬で我に返った。
レイジは言葉の真意を理解できかねると言いたげに
酔いの中できょとんと目を見開いて、私のことを見ている。

自分が先ほど言ったことを思い返して、私はさっと血の気が引いた。
ずっと言わずにいるつもりだったことを、売り言葉に買い言葉で言ってしまったのだと。
 
いつから私がレイジにそういう感情を持っていたのかを問うことは、非常に無意味なことだ。
それは子供が母国語を覚えるのと同じくらい、自然に培われてきたモノだから。

ただし、7つも上のレイジにとって私はその対象に入らないことに年齢を重ねるにつれて気付いてしまったり、
姉弟子として、狩魔の直系の娘として、悔しいけれど才覚あるこの男にどうしても負けるわけにはいかないと感じたりして
その感情を表現することは絶対にしないようにしてきたけれど。

それでも、いい加減どうにかしないとこの男が壊れてしまうと恐怖を感じていた私は
なりふり構わずに――恐らく半分以上自棄になって、正直な思いを続けてぶつけた。

「気になるから、そんな状態のキサマを見過ごせないのよ!悪いかしら!」

それを聞いた男は、しばらくポカンとし続けていたが、
少し経ってから、突然堰を切ったようにくつくつと笑い始めた。

「――何よ」
「いや、悪くはないが――君も男の趣味が良くないと思ってな」
その言葉は、この男が私の真意を理解しているということを表していた。

「わかっていて知らないフリをしてきた癖に、よく言うわね」
見透かしていたかのように私が疑惑を口にすると、レイジは気まずそうに言葉を詰まらせた。
「ム、……すまない」
やっぱりバレていた――その事実が、私の体から急速に力を抜いていく。

私の脱力をよそに、レイジはそのまま言葉を続けた。
「だが、君はアメリカにいた方がいいと思うのだ」
「どうして?」

少し呂律の回らない口で、彼はつぶやくように答えた。
「これ以上私に近づくと、君に迷惑がかかる」

「――迷惑?」
「私は、いつか破滅する。奈落に落ちるかもしれない。」

それは、断言というよりも確信のある予言のような響きを伴っていた。
「私の近くにいる人間は、不幸になる。きっと……私の父のように」

「――どういうこと?」
私はそう尋ねたが、彼は思いつめた表情をしたまま首を横に振るだけだった。
その視線は、もはや完全に現在ではなく過去だけにとらわれている。

勿体ぶるようなレイジの様子に私は少し苛立ちを感じたが、すぐにあることを思い出した。
いわゆる“深刻なトラウマ”は、病名がつくほど根深いということを。

その“病気”は、私の国ではそんなに珍しくない概念で、治療プログラムもそれなりに開発されている。
法廷に被害者や証人として現れる人間がこうしたモノを抱えていることもあるので、私も一定の知識は得ていた。

日本でも名前は知られているらしいが、ケアに関してはまだまだ遅れていると聞いたことがある。

レイジは、過去の事件のことも考慮に入れるとそれに当てはまる状態に見えるけれど
そうしたケアは一切受けてこなかったと思う。
その理由は、この国で適切なケアの浸透が進んでいるかどうかの問題よりも
パパが、狩魔の人間がそうした“病気”で医療機関に掛かることを良しとしないから。

結局そこでどうにもならなくなることがわかっているから、
私もレイジやパパに、受診を勧めるようなことは一切言ってこなかった。

ともかくレイジは、自分の持つ記憶と苦しみを癒すことなく今日まで生きてきた、ということだ。
そして、心に傷を抱えた人間は、自分のことについて現実的な判断ができなくなるらしい。
――つまり未来が奈落の底と同じように見えても、全くおかしくないのだと。

だからレイジの言う「破滅」はきっと、彼の心が作り上げた幻想なのだろうけれど
それは違うと説き伏せても、長年をかけて完成されたそれを突き崩すのは
天才検事である私でも、不可能なことだと思う。
それは法廷とは違って、論破しうる証拠になるようなものがないから。

けれど――
「でも、だったら尚更放ってはおけないわよ」
「破滅」とやらを恐れているレイジは、その結果自分自身を傷つけるような状況に追いやっている。
このまま放っておけば、彼は本当に自滅すると私は思った。

「放っておいてくれ」
頑固にも、レイジは私の言葉を拒絶する。
思わず私はそれに言い返そうとするが、一瞬早く彼の方が言葉を継いだ。
「メイを巻き込みたくないのだ。どうしても、君だけは――」

だから頼む、放っておいてくれ――小さな声でそう呟く声が、ぽつりと聞こえた。
あまりにも切実なその声に、私はいろいろと諦めることにした。
一応、そういう対象ではないとしても、この男は私を大事にしていると伝わってきたから。

「私がダメなら、せめて他に誰か傍に置きときなさいよ――トモダチとか。」
最大の譲歩のつもりでそう言ったけれど、頑固な男はそれすらも却下する。
「友達など、一人もいない」
その表情があまりにも寂しそうに見える。

もしかして、寂しくて女遊びをしているんじゃないかという疑念が頭に浮かびながらも
私はとりあえず、必死に候補になる人材を上げてみた。

「あのヒゲなんとかって刑事がいるじゃない」
「糸鋸刑事は部下だ。部下は上司が守ってやるものだろう。」
あの刑事なら、たとえ巻き込まれても喜びそうな気がする――そう思ったけれど
何となくバカバカしくなってきて、私はそれを伝えてあげるのをやめておいた。

「――わかったわよ」
とりあえず、この男には精神的に頼れる人間がいないということがはっきりした。
むしろ私も含めてそうなる候補は複数いるのに、わざと独りになるように仕向けている。

そして、トラウマによる妄想めいた信念によって、それをどうにもできない状態――
だったらもう、私にできることはほとんど残っていなかった。
「私は今まで通り、アメリカで生活を続けるわ。必要以上にレイジに近づかない。」

そう告げると、「放っておいてくれ」と言ったはずの男が、少しだけ困ったような表情をする。
本当に面倒なオトコだと、私は思わず苦笑した。
「でも――踏み込まないけれど、キサマのことはずっと見ていてあげるわ。」

それが、思いつく限りの「私にできること」だった。
少し怪訝そうな表情をした彼に応えるように、私はそのまま言葉を続ける。

「破滅して奈落に落ちるというなら、その瞬間までキサマの生き様を見ていてあげる。
  そして、もしそうしてレイジが独りになっても、もしどこかに消えてしまっても
  私は死ぬまでずっと、レイジのことを覚えて、心配し続けてあげるわ。
  ――そのことを知っていたら、レイジは完全な“一人”にはならないでしょう?」

もし、破滅とやらが孤独感によるものなのだとしたら、きっと少しは事態が悪くなくなる。
そう思って、私はできるだけ力強く、私なりの考えを言い切った。

レイジはしばらくきょとんとして、私の言葉を反芻するように視線を動かしていた。
少しして意味を理解すると、彼は力が抜けてしまったように肩を落として、眉をひそめて笑った。

「そういうことを言われると」
レイジはそう呟きながら、ゆっくりと私の肩へと手を伸ばす。
俯いていて表情はわからなかったけれど、声は少し、震えていた。
「たとえ巻き込むとしても、君を道連れにしたいと思ってしまうではないか」

「――望むところよ」
レイジが少し冗談めかした声をあげたので、私も少し安堵してそれに応じた。

「それにもし、レイジが奈落に落ちるなら――私がそこから引き上げてあげるわよ」

私がそう付け加えると、私の肩に回された太い腕が、ぎゅっと私の身体を抱きしめた。
 
 
結局、レイジが私をどう思っているのか、彼は最後まで何も言わなかった。
私は態度から推しはかろうとしたけれど、それも無理なことだった。

地震や悪夢の際に、発作を起こした彼に抱きしめられることは何度かあったけれど
それから一晩の彼の様子は、そういう時のものとほとんど同じだったから。

迷子の子供が拠所を求めるかのように。
溺れた人間が無我夢中で救助者にしがみつくかのように。

思い描いてきた男女間の営みと大きくかけ離れた、彼から醸し出される切実な空気に
私はひとつの真実を理解した気がした。

会うたびにこの男が違う残り香を纏っていたのはやっぱり、
女好きだからではなく、孤独とあの記憶を処理しようとする努力の結果だということを。
 
 
次の朝、レイジはその晩のことを綺麗さっぱり忘れてしまっていた。

私がレイジにとっての「神」に等しい男の娘だから、面倒にならないようにと
忘れたフリをして全てをなかったことにしようとしているのかと疑ったけれど
あの狼狽え方は、どうも演技とは思えなかった。

あれが泥酔による記憶障害なのか、その他の要因が働いていたのかは、今となってはわからない。

ただ、レイジが覚えていようといまいとその原因が何であっても、私の中ではすでに方向性が決まっていた。
彼には縋るモノが必要だから、私がソレになってあげよう、と。

そして私は、レイジの意思とは関係なく、そうなるように無理やり話をこじつけて――
愛情があるのかないのかよくわからない状態で、私たちの関係が始まった。

それが正しいことなのかどうかはわからないけれど、
どんな理由があろうと、レイジが私も含めて誰にも心を向けていないとしても、
レイジがこれ以上、あんな姿を私以外の女に見せるなんて、絶対に許せなかったから。
 
 
固定されたパートナーを与えられたことで、レイジは明らかに落ち着いた。
素行ももちろん、表情などを見ても、だいぶ穏やかに笑えるようになっていった。

けれど、ある時期――人生初の敗訴を味わったしばらく後から、
突然、彼は私を遠ざけ始めた。

電話も向こうからは来なくなり、私から掛けても生返事の末にすぐ切られてしまう。
私が日本を訪れても、事務的な送り迎えを無表情でこなす以外は何もしない。

突然の大きな変化に私が抗議しても、迷惑だと言わんばかりに一瞥するだけで
私を置いて先を歩いて行く背中にあるのは、明らかな拒絶だった。

今思えば、レイジの態度が変わったのは、例の事件の時効から半年ほど前のことで
彼なりに――自分が真犯人だと信じていた人間なりに思うことがあってのことだったのだろう。

ただ、当時の私はあそこまであからさまに拒まれて、それ以上近付こうとは思えなかった。
心細くなって戻って来ても、もう優しくしてあげない――そう決心するくらい腹を立て
忙しさを理由に日本へ行く回数を極力減らすことにした。

そんな中、私は彼の二度目の敗訴の話を、パパから聞くことになる。
その内容は、狩魔への裏切りに等しいものだった。

曰く、「完璧な勝利」がモットーの狩魔の人間が、自分の意志でわざわざ敗訴を選んだ、と。

パパはレイジの敗訴については多くを語らなかったけれど、
私とのやりとりの中で「所詮弁護士の子だったということだ」と呟いた。

パパはそれっきりレイジの話をしなくなり、
私もパパに倣い、裏切り者となったレイジとの関わりを持とうとしなくなった。
折に触れてパパ以外の知り合いから、レイジの近況を聞き出してみたりはしたけれど。
 
 
そして――それからしばらく後。
レイジの逮捕に始まるDL6号事件の“終焉”が訪れ――

――その瞬間、私の世界は大きく変わった。
 
 
結局、私はレイジを守ることも救うこともできず、
レイジを“人殺し”の立場から救ったのは、突然現れた彼の幼馴染だった。

何も知らず、自分のことを唯一レイジを救える存在だと何となく信じていた私は
彼とその父親から未来を奪った殺人者の娘という
思っていた立場と真逆の存在だったことを突然知らされることとなり――

――それからほどなくして、私はパパを失う予定の人間となった。

“殺人者”であるパパのことを、私はそれでも嫌いになれなかった。
私にとってはずっと大好きなパパだったし、検事として、師としてはずっと正しいことを教えてくれたから。

一度だけ面会に応じてくれたパパとは、ほとんど世間話しかしなかった。
私やママの近況、姉やその家族の様子を一方的に私が話して、パパは目を閉じて頷くだけ。
それは私たち親子にしては珍しく、法廷にまつわる話題の一切ない、奇妙な時間だった。

ただ別れ際、パパは短くこう言った。
「私の書棚にあるものは、今から全てお前のものだ」

達者で暮らせ、と最後に言って面会室を出て行ったパパが伝えようとしたことを、
私はちゃんと理解できていた。
それが――“狩魔”の名を継いで良いことを意味しているのだと。

そのことについてどういう形を取るべきかを決められないまま
私は溜まっていた有給をフルに使って、それからも頻繁に日本を訪れた。

――もう一度、パパに会いたいと願ったから。

片手間に行った、与えられた書棚の整理や把握は順調に進んだけれど、
拘置所を訪れても、パパはもう面会に応じてくれなかった。

恐らく、パパが私に伝えたかったことはもう言い終わったのだろう。
そういう人だと理解してはいたけれど、私の方にはまだ諦められないものがあった。
 
 
何度目かは忘れてしまったけれど、その日も面会を断られて
私は拘置所の玄関を出ようとしていた。

殺人を犯した検事の娘というのが、ゴシップへの欲求を掻き立てるのだろう。
職員や関係者と思わしき人間の視線が向いているのが肌に伝わるので
私はできるだけ、人間を意識の中に入れないように歩いていた。

けれど、その日感じた一つの視線だけはあまりにも強すぎて見過ごすことができず
私は苛立ちを感じて視線の主の方を見遣って――すぐに息を呑んだ。

その視線の元には、見慣れた赤いスーツとクラバットの――御剣怜侍がいた。
彼は立ち竦むように硬直して、私を凝視していたのだ。

例の事件後以来――いや、恐らく半年ぶりに会った彼は、以前より憔悴して見えた。

互いに無表情のまま、しばらく膠着したように視線をぶつけ合っていたけれど
しばらくして彼の方から視線を外し、他所を眺めながら嘲笑うかのように、彼は顔を歪めた。

「君の存在も――彼の復讐の一部だったのだな。」

意味はよくわからなかったけれど、その音には押し殺された憎悪の念が滲み出ている。
大きな憎しみに圧倒され動けなくなった私をそのまま置いて、彼は拘置所の奥へと歩きだした。

恐らく十秒ほど遅れて、体の感覚が戻った私が振り向いて見たものは、事務的に歩を進める彼の背中で――
それが、私の最後に見た御剣怜侍だった。
 
 
――そして数日後、彼は検事局から姿を消した。
 
 
私はいなくなった男のことは極力考えないようにしながら、忙しい生活を続けたし
アメリカと日本を行き来することもやめなかった。
――パパは相変わらず面会に応じてくれなかったけれど。

そんな中、明らかな変化が一つだけあった。
片手間に進めていたはずの蔵書整理が、全く進まなくなったのだ。。

パパの邸を訪れると、否が応にも思い出してしまう。
仕事のために本や書類に目を通す、パパの姿。
そして、――その傍らでパパを手伝っていた御剣怜侍のことを。

いたたまれなくなって、別の場所で休息を取ろうとしても
どこに行っても、二人の姿が目の奥でちらついた――食堂も廊下も、リビングも庭も。

この屋敷のこと、パパのこと、そして私が検事であること。
その全てに、御剣怜侍の存在が深く絡みついていて離れない。

初めの頃は、彼といて楽しかったこと、ケンカしたことなど
さまざまな光景が次々に浮かんできたけれど、
だんだんと想起するものが一つだけに絞られていった。

――私を置いていった、あの男の背中。
狩魔の教えに背いて去っていった、裏切り者の姿。

パパの屋敷に帰るたび、彼と行った場所を訪れるたび、
彼に迎えられた空港のゲートを通るたび――あの背中が、幻のようにちらつく。
その都度、私の足は竦み、思考が停止された。
 
 
その幻が仕事中――検事として法廷に立っている時にまで現れるようになったあたりで、
私はとうとう限界を感じた。

こんなことに煩わされている場合ではない。

私がすべきことは、ただひとつ。
天才と呼ばれた父の跡を継ぎ、検事としてその名に恥じぬよう更なる高みを目指すこと。
それはきっと、堕ちてしまったパパの名を、元の高みに戻すことにもつながる。

けれど私はこのままでは――高みになんか進めない。
あの背中が脳裏から消えない限り、私はここから動けないのだ。

だから、まずはあの背中をどうにかしなければいけない――私はとにかくそう感じた。

それにはきっと、視界からなくしてしまえばいい。
私の世界から、あの男の存在を消してしまえばいいのだ。

どんな手段を使ったっていい。どんな犠牲を払っても構わない。
それが、幻になってまで私を置き去りにし続ける、あの男への復讐。
 
 
――そう決心した私は今、日本の法廷で検事席に立っている。

目の前には、御剣怜侍に勝利し、その後彼を救ったという憎き弁護士が対峙していた。
相手は、経験の浅い弁護士。伝え聞いた数回の偉業とやらは、きっとマグレに違いない。

この男を法廷で完璧に打ちのめすことで、私の“復讐”は達成される。

そう思って逸る心を抑えながら、私は握りしめた鞭にさらに力を込めた。

 

<おわり>