「ぬくもり」

 

父が殺された後、僕はただひたすら僕なりの「復讐」に向かってのみ情熱を燃やし続けた。

あの事件の数ヵ月後、「無敗の検事」として有名な先生の誘いを快諾し、彼の屋敷に引き取られた頃も
他人のことなんか一縷の興味もわかぬまま、僕は先生から与えられた課題をこなすことだけ必死に続けていた。

だから彼女との初対面のことは、本当はよく覚えていない。
確か先生のスーツの陰に隠れて、その裾をぎゅっと掴んでこちらを不機嫌そうに見ていたような……
そんな映像は脳裏にあるのだけれど、その程度の記憶しか残っていなかった。

彼女は普段アメリカで暮らしており、数ヶ月に1度日本に来ては数日から数週間、父親の元で暮らしてアメリカに戻っていく。
はじめに彼女と過ごしたのは、引き取られてすぐの春のことだったが
僕はその頃、先生以外の人間に心を開く気もなく、またそれだけの気力もなかった。

彼女の滞在期間、先生から与えられた課題を片付けて教えを受けに行くと、たいていそこには彼女がいた。
ただ彼女は父親にぴったりとくっついていて、僕のことは無視するか睨み付けるかだけだったので
特に接点はなく、僕の方も先生の部屋の風景の一部として彼女を捉えていた。

ただ、そんな関係もそんなに長い間のことではなかった。
次に訪れた夏の滞在時に、僕と彼女に共有の勉強部屋を与えられたことをきっかけに、
僕と彼女は否応なく顔を合わせざるを得ない状況となってくる。

それまで気付いていなかったが、彼女の寝室は、僕に宛がわれた寝室からそれほど離れていない場所にあった。
基本的に勉強部屋と寝室と先生の部屋、そして食堂や水回りを行き来するだけの
勉強漬けの生活を続ける僕と彼女は、日中はずっと顔を突き合わせ続けることとなる。

正直なところ、他人と――しかも何となく煩わしそうな雰囲気の子供と一緒だなんて
面倒で仕方がないと僕は思っていたけれど、勉強部屋はせっかく先生が与えてくれたもの。
勉強に集中するためとはいえ寝室に篭ってばかりいたら、先生の厚意を無駄にしてしまうことになる。

まだ幼かった彼女は数時間の昼寝を取るので、その時間だけ、面倒な気分から解放される。
僕は毎日、その時間が待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がなかった。
 
 
ある夜、僕は寝室を出て先生の書斎へと向かった。
与えられた課題をこなすことができたので、先生に見て貰おうと思ってのことだった。

予定より早くこれを仕上げられたこれを見たら、先生はきっといつものように笑ってくれるだろう。
僕は、先生の満足げな笑顔を思い浮かべて、少しだけ軽い足取りで僕は書斎へと歩を進める。

だが、書斎には鍵がかかっており、先生がそこにいないことを告げていた。
帰宅された先生がここ以外で行くとすれは、寝室か浴室あたりだ。

まだ8時だから、先生の就寝時間ではない。とすれば、入浴されているということか――
そう考えた僕は、一度部屋に戻って出直すことにした。

その前に台所で水を貰おうと1階へと降りると、聞き慣れない声が聞こえてくる。
小さな子供の声――それを持つ人間はこの屋敷に一人しか居ないことはわかっていたが、
日本語とは発音の違うその音に、僕は珍しく興味を感じてフラフラと引き寄せられた。

そっと覗き見た部屋の向こうにあったのは、僕が想像していなかった光景だった。

普段はリビングで寛ぐことなど滅多にないはずの先生が、今日はそこにいてソファに腰掛けて酒精を嗜まれている。
その向かいでは、あの小憎たらしい女児が、自分より幅の大きい本をしっかりと広げて元気良く何かを朗読していた。

――彼女がこんな声で喋ることも、あんな風に笑うことができることも、僕はそこで初めて知った。

彼女が普段使っている言語なのだろう。大きな声なのに何を言っているのかは僕には皆目見当がつかない。
だが、大好きな父親の前で……きっと褒めてもらいたくて、力を込めて声を出しているのは伝わってきた。

そして先生は、時にその姿を静かに眺め、時に目を閉じてその声を聞き入っている。
その笑顔は僕が知っている先生のそれとよく似ているけれど、全然違うものだった。

いつも通りの不敵な表情なのに、とても嬉しそうで、暖かい。
身体を巡るアルコールと一緒に、彼女の存在そのものを全身で受け入れているように見えた。

それはまるで、僕がコンクールで賞を取ってきた時の、お父さんと僕のようで――

暖炉の前で同じ表情を浮かべる父を思い出した瞬間、僕は何かに突き動かされるかのようにその場を立ち去る。
先生に用があったはずなのに、リビングに入ることなどできず声を出すことすらできなかった。

僕がどれだけ頑張って先生の期待に応えても、あんな風には笑ってくれたことは、今まで一度もなかった。
先生は僕に、親切に衣食住と学業の機会を与えてくれる。親身に検事としての道を示してくれる。
それでも、どれだけ笑顔であっても――僕に注がれるのは、僕の能力を試すような――射るような厳しい視線だけ。

走って屋敷を飛び出してしまいたいような衝動に駆らながらも、僕は歩いて自室へ戻る。
品格に欠けるような振る舞いをすれば、いとも容易く放り出されるような気がして――取り乱すことすらできなかった。

部屋に戻ってベッドに登ると、僕は布団をかぶることも忘れて、しばらく呆然と天井を見つめていた。

あそこにあったのは、紛れもなく――親子の風景。
僕が失ってしまったもの、失ったことを考えないようにしてきたもの、そのものだった。

検事になるために師事してきたはずなのに、いつしか僕は先生に父の姿を――家族を求めていたのだと、僕はその時思い知った。
けれどさっきの光景を脳裏に浮かべれば、それが叶わぬ幻なのだと改めて思い知らされる。

先生には大事な娘がいて、そこに僕が入り込む余地などないのだと。
それくらい、先生のあの少女を見る時の目と僕に向ける視線とは質が違っている。

僕は、先生のお嬢さんの姿を思い出して、うっすら空笑いをした。
あの子はよく、父上にぎゅっとしがみついて、噛み付くような顔で僕を全力で威嚇する。
まるで「パパをとらないで」と僕に釘を刺すかのように。
――僕自身が気付いていなかった願いを察知して、怒っていたのかもしれない。

でも、そんなに怒る必要なんてないのに――滑稽で仕方がない。
僕がどんなに頑張ったって、君のパパは君と君の姉上のパパであって、僕のお父さんじゃないんだから――
だから、あんなに僕を睨まなくてもいいのに――僕の存在を許さないかのような、強い目で。

彼女がいると、僕にはもう家族がいないのだと思い知らされる。
歓迎されている存在ではないのだと、愛されてここにいるわけではないのだと――実感せざるを得なくなる。

確か、彼女はこの夏の間――アメリカの夏休みが終わるまで、ずっとここに滞在すると言っていた。

でも僕は願わずにいられなかった。
彼女が一日でも早く、この屋敷から姿を消してくれますように、と。

彼女さえいなければ、この屋敷にいるのは先生と弟子の僕と、昼間にやってくる使用人たちだけ。
他人だけで構成される空間を……僕はその夏の間、心から望み続けた。
 
***
 
彼女が次に屋敷を訪れたのは、クリスマスを過ぎた数日後――ちょうど、「あの日」の夕方だった。
その前の年から、一年で一番苦痛となった日に、さらに苦痛な子供が近くにいると思うと
僕は嫌で嫌で仕方がなかった。
 
 
案の定、その夜も僕はいつもと同じ夢を見た――しかも、いつもよりもやたらと鮮明に。
あの時の気温や風景の細部まで再現された夢の中、僕は三角に折り曲げた膝を抱えて
父と知らない男の口論を怯えながら聞いていた。

――守らなきゃ……お父さんが死んでしまう。
あまりにも激しいその言い合いに、追い立てられるようにそう思い、手元を探る。
重そうな金属の物体が、近くに落ちていることに僕は気が付いた。

――お父さんを、守らなきゃ。
僕が意を決して冷たくて重いそれに手を伸ばし、握り締め――

「ふ!むぐ……・っ?!」

突如訪れた柔らかい息苦しさに、僕は思わず目を開ける。
ムッとした表情の幼子が、ぐいぐいと僕の鼻と口にふさふさした熊のぬいぐるみを押し付けているのが見えた。

僕が目覚めたことに気が付くと、彼女はおもむろにそれを僕から離してストンとベッドに腰掛けた。
「何を、するんだ……」
今思うと、それが僕が彼女に話しかけた、はじめての言葉だったのかもしれない。

うまく回らない口をどうにか動かしてその背中に尋ねると、
年齢の割に大人びた口調で、彼女がツンと澄ました声を響かせる。
「時差ボケでヒマだから、お歌を歌いに来たのよ」

「自分の部屋で歌えば良いじゃないか」
「私の部屋はパパのお部屋と近いもの。起こしてしまってはいけないわ」
僕にとっては筋違いの迷惑以外の何物でもないそれは、彼女にとっては完璧なロジックなのだろう。
その言葉には一切の迷いがないかのようだった。

「それに、このぬいぐるみは何だ」
僕が枕元に置かれた熊を叩くと、手加減のない子供の手がぐいぐいと僕の顔を押さえつけた。
「ぬいぐるみじゃなくて私のお友達。乱暴に扱ったら承知しないんだから」

あまりの痛さに僕が小さく謝ると、満足したように高慢な笑みを浮かべて彼女は僕から手を放す。
そのままぬいぐるみを僕の胸元と布団の間に入れ込んで寝かしつけると、彼女は「お友達」だけに優しく笑いかけた。

「……何をしている」
「いいから、この子と一緒に私の歌を聞いてなさい。」

命日が近い影響か、12月に入ってからの僕は、ひどく不安定だった。
その当日を終えて、内心相当揺れていて――しかも、いつもより鮮明な悪夢を見た後で
恐らく、そうとう疲弊していたのだと思う。

それ以上言い返す元気も湧かぬまま、起き上がって無理に追い出すこともできずに、僕は目を閉じてそのやり過ごそうとする。
短い歌を3つほど歌い終わると、しばらくの沈黙の後同じ歌が繰り返される。
きっと、レパートリーが尽きたのだろうと想像した。

音程を外さず完璧に、そして囁くように小さく響く声は、僕がたまに耳にしていた煩いものとは違う。
その夜はもう眠れないだろうと思っていた僕をまどろみに誘うような――落ち着く、優しい音だった。
 
 
翌朝、いつものように悪夢で目を覚ました僕は、目の前に銀色の何かが広がるのを見た。
昨夜ベッドに腰掛けて歌い、そのまま疲れて眠ってしまったのだろう。
寒そうに見覚えのないブランケットに包まった彼女が、僕に背を向けて横になり、寝息を立てていた。

今にもベッドからずり落ちそうな体勢だと思い、のろのろと起き上がって彼女の身体を抱き上げると
布越しに、子供の高い体温が僕の皮膚に伝わってくる。

寒くて硬質な箱と対極にある、温かくて柔らかいもの。
あれは夢で、――こちらが現実。

しばらく無心でそれを抱えているうちに、凍り付いていた僕の心臓にじわじわと熱が伝わるような――そんな感覚がした。

指先も顔も熱くなり、少し経ってから、僕は自分の目からもっと熱いものが零れていることに気が付いた。

父が亡くなってから、僕はたぶん泣いたことがない。
人間が持つはずのいくつかの感情は、あの時間のまま止まってしまったように動かないのだ。
よく動くのは怒りと恐怖、そして検事への道を進む過程で感じる、妙に昂ぶった喜びくらいだった。

安心とか悲しみとか、そういうものはこの1年感じたことがなかったはずなのに――
この体温を感じていると、止まっていた感情がどっと溢れて彼女の髪に吸い込まれていった。
 
 
それからも彼女は、夜になると時折僕の部屋を訪れた。
「昼寝をして眠れないからヒマなの」「歌が歌いたくなったから聞きなさい」などと、理由は一見適当で迷惑なものだった。

だが実際には、そんなに悪い時間ではなかった。

彼女も眠いだろうに、眠気を噛み殺して歌を歌い、僕が眠るのを待つ。
あまりにも気の毒だったので、僕が目を閉じてウトウトと眠りに落ちるフリを始めると、
彼女は普段見せることのない優しい表情で微笑み、僕の額と髪を優しく撫で梳いた。

しばらくそうしてから、彼女は僕の頬にキスをして、眠たそうにスリッパを引きずり僕の部屋を静かに出て行く。
アメリカに住む彼女の母親は、こうして彼女を寝かしつけるのだろう――そう容易に想像できるような、暖かい時間と空間。

その後に訪れるのが悪夢だと知っていても、その温もりが少しだけ僕を守ってくれるような気がして安心できた。

昼間に勉強部屋で一緒に居ても、彼女は僕を睨みつけるだけで仲良くしようとはしない。
冬休みが終わるまで、昼寝の時間が増えるようになった彼女と、この不思議な交流が続き――
 
 
しばらくして彼女がアメリカに戻ると、僕は彼女が再びこの屋敷を訪れる日が待ち遠しくて仕方がなくなった。

***

そんなことを季節ともに繰り返すうちに、少しずつ会話をしたり共に勉強したりする時間が増え、
いつしか彼女は、僕が失ったものを与えてくれる、かけがえのない存在となっていった。

ちなみに当時彼女が歌っていたのは全て子守唄だったが――私がそれを知ったのは、二十歳近くになってからのことである。

メイの滞在期間は成長と共に短くなり、また同じように私の部屋に来る回数も減っていった。
それでも、彼女は相変わらず、傍目には分かり辛い気遣いをしてきたし、
私は傍若無人な彼女の振る舞いに辟易する素振りを見せながらも、その裏にある彼女の厚意を受け入れてきた。

たとえその優しさの根元にあるのが悪夢や地震でのた打ち回る私への同情なのだとしても、私は良いと思っている。

とにかく彼女は、私にとって心を許せる数少ない人間の一人であり――そして、唯一「家族」と呼べる存在だった。
 
 
私が大人になると、彼女は殆ど私に触れなくなった。
私たちが実の兄妹だったとしても、彼女はきっと当然のようにそうしただろう。

だがそのことを理解していても、私は非常に心許ない気分にさせられた。
それだけずっと、彼女の声や体温に救われていたということなのだろうと、今になって思う。

ただ、長い間そのことに気付いていなかった私は、徐々に湧いてきた落ち着かない感覚を
仕事のストレスか何かだと考えて深く考えることはしなかった。

ストレスを発散するために自宅や酒場で酒を飲むようになり、そのうちに店で知り合った女性と付き合うようになった。
ただ、触れ合っても思ったほど高揚も安堵もなく、こんなものか……と少し落胆したのを覚えている。

それから一月ほどその人と付き合ったのだが――次の月に、自然消滅したことに気が付いた。
相手がその店に来なくなったことに思い至り電話をしてみたが、交換していた番号はすでに解約済みで――

似たようなことが何度か繰り返されて、私は恋愛の絆が非常に脆いことを思い知った。

それでも何となく心許ない気分になると私は店を訪れ、誘われるまま適当な相手を選んで付き合った。
――自分は何をしているのだろうと、しばしば呆れたようなため息をつきながら。
 
 
正直なところ、メイを女性として見たことがないと言い切ると、全くの嘘になる。
だんだんと綺麗に成長していく彼女を、ついそういう風に意識する場面は、この数年何度もあった。

だが私は、その頃にはもう男女関係の脆さを知っていた。

女性として見れば、いつかメイは私の世界から消えてしまうかもしれない。
時折漠然と考えるそれは、私が彼女を妹以上に見ようと意思をあっさりと削いでいった。

それに、彼女と男女の仲になってしまうと、その瞬間彼女は「家族」ではなくなり
――私はとうの昔に家族を失った、天涯孤独の根無し草であることに直面せざるを得なくなる。

それは、私にとって自分の存在そのものが危ぶまれるほど、非常に恐ろしいことだった。

こうした理由から、彼女は私の恋愛対象から意図的に外されていた――はずだった。
だが、わざわざそうする必要があったということは、つまりは私が彼女を意識し続けていたということなのだろう。
 
 
――そんな結論で、長い考え事は幕を閉じた。

私が気持ちの整理をつけられないまま激情をぶつけたせいで、疲れ切ってしまったのかもしれない。
メイは私に背を向けて、気だるそうに私の枕を抱いて横たわっていた。

日付が変わる前には湯浴みを済ませた状態で家に送り届けねばならないが、もうしばらくは休める時間がある。

その白い背中に手を伸ばすと、熱をもった人肌が優しく私の存在を受け止める。
――私はずっと、これが欲しかったのだ。

素直にそう認めてしまうと、箍が外れたように私の中から何かが溢れ出す。

湧き上がる感情のままに彼女を抱き寄せ、柔らかい後ろ髪に顔を埋めると
まどろむような静かな声が、いつもよりゆっくりと私に問いかけた。
「……まだ、足りないの?」

その音には疲れと咎めるような響きが含まれていたが、伸ばされた彼女の手は、労わるように私の額から髪を撫でる。
分かり辛い受容のサインだと解釈して、私は彼女を抱きしめながら耳元で囁く。

「ああ。足りない。」

――全然、足りない。
あの冬の箱に閉じ込められたままの私は、君に触れていないとすぐに冷え切ってしまう。

君が欲しい―その温もりが欲しい。
いくら抱きしめても、全く足りない――

自覚した感情は恐ろしいほど貪欲で激しく、私は自分の中で渦巻くものに否応なく翻弄される。
その戦慄から逃れたい思いと純粋な欲望とに突き動かされ、私は手加減なく彼女の全てを求め始めた。
 
 
よほど負担を強いられたのか、アメリカに帰る間際まで彼女が口をきいてくれなくなってしまったが――
それはまた、別の話である。
 

 

<おわり>