「こどもだまし」

 

とある朝のことだった。

出勤早々、用があると言われて先生の部屋へと呼び出される。
それは仕事の話ではなく、アメリカに住む先生の娘が休暇で日本に来るという報せだった。

彼女が来日するとき、空港への送迎はいつも私に任される。
今回もそれを頼むということと、先生は急な出張が入ったため
その間の彼女の相手を頼むと、先生は私に命じる。

私にとっても彼女は妹のような存在だったので、いつものように、迷うことなくそれを快諾した。

彼女――メイは同業者で、今は向こうで難しい案件を抱えているところらしい。
その仕事が片付き次第、休暇に入り飛行機に飛び乗ると、昨晩連絡があったそうだ。

ということは、移動時間を計算に入れると明日以降はプライベートの予定を空けていたほうが良さそうだ。
頭の中でそう考えながら、私は先生に挨拶を済ませて執務室を退出しようとする。

「――御剣」
ドアに手をかけたところで、私は先生に呼び止められた。

振り向くと、難しそうな表情をした先生が、私ではないどこかに視線を当てながら口を開く。

「あの娘は、まだまだ青い。」
その表情は、決して彼女を貶しているものではなく、どちらかというと、どこか愉快そうなものに見えた。

表に出すことは滅多にないが、この人は、今から伸びていくだろう若い彼女の成長を心待ちにしている。
長年近くで二人を見てきた私には、そのことがよくわかっていた。

それだけに、弟子の私が今の言葉に「そうですね」などと応じれば、下手をすると身体ごと宇宙まで飛ばされかねない。
私が黙って待っていると、先生は再び言葉を続けた。

「未熟な者は、自分よりも成熟した人間の真似をしたがるものだ」
「――はい。」
これは、同調してもいいと思われたので、素直に相槌を打つ。

私にも、先生に近付きたくて仕草を真似したり
先生と同じ型で色違いの服に喜んで袖を通していた“青い時期”があるからだ。

私が頷くのを一瞥すると、先生はじっと私を見据える。
それまでになく静かでどことなく険しい表情に、私も思わず姿勢を正した。
すると先生は、神託を告げるように……厳かに声を響かせる。

「メイから見れば貴様も成熟して見えるのだということを、決して忘れるな」

先生の言わんとしていることを、理解できた自信はなかった。
ただ、彼女の成長に自分の存在が大きく関与している可能性の示唆と、
尊敬する先生の大事なものを任されているということだけは、
確かにその言葉から伝わってきて、私は胸を熱くする。

「そのお言葉、肝に命じます。」
彼女の良い手本であろう――私は改めて師と己にそう誓った。
私はそのまま意気揚々と部屋を出て、自分の仕事へと戻っていく。

だからこの時、私は全く思いもしなかったのだ。
――先ほどの言葉には別の解釈も可能であること、
そしてそれこそが、先生がこのタイミングでその話をした動機だった――ということを。

***

同日、午後9時30分。

私は、それまで隣り合って歩いていた女性に短く別れを告げて、一人別の方向に歩き出した。
相手も、起伏のないトーンで返事をすると、違う方向へと帰っていく。

その足音を耳にしながら、もうこの人とは連絡を取り合うことはないだろうな、と思った。

先月あたりに行きつけの店で出会い、付き合い始めた相手だった。
数度逢引を重ね、明日から忙しくなるからと今日のうちに会ってみたものの
何となく盛り上がるような気持ちになれず、逢瀬にしては早い時間だが互いの同意の上で切り上げることとなった。

キスや抱擁もしたし、それ以上のこともこなしたが、 世間でいわれる「愛しい」とかいうような気持ちも湧いてこない。
そうこうしている間に、相手が飽きたり醒めたりして離れていく――
片手の指以上には女性とそのような関係になってきたが、私の恋愛は毎度同じようなパターンで終わっていた。

だが、それを寂しいとも思えず、ただ漠然と、“彼女からはもう連絡はこないだろうな”と判断している自分がいる。
その女性と繋がる唯一の手段だった携帯電話をポケットから取り出して、私は疲れの混じったようなため息をついた。

ふと、手のひらより小さなその液晶画面に、いつになく何も映っていないことに思い至る。
そういえば二人きりになるときに、携帯の電源を落してそのままだった。

電源を入れると、その間の着信履歴が忙しない勢いで送られてきた。

着信、10件。携帯会社に保存されているメッセージが、4件。
何か事件でも起こったのだろうか?と番号を確認する前に、急いで留守電のサービスに繋いでみる。

残されていたメッセージは、ある意味で事件よりも強く、私に戦慄の感情を覚えさせた。

『今、羽咲空港に着いたわ。迎えに来てちょうだい。』――午後8時10分。
『両替所が閉まっているの。タクシーも電車も使えないから、迎えをお願い。』――8時30分。
『ロビーで待ってるわ。22時を過ぎたら近くのホテルに泊まるから、明日支払いをよろしく。』――9時。
『メイが日本に着いたと連絡があった。これを聞いたら早急に迎えに行くように。」――9時5分。

最後の、出張先からの先生の声が決して機嫌の良いトーンではなかったことが、私を焦らせる。
しかし、私は今朝、「今の案件が片付き次第、メイは飛行機に乗る」という話を聞いた。
移動時間を考えると、私がその話を聞いたときには、彼女は既に機上の人となっていた計算になるのだが……。

納得のいかないものを感じるが、それでもこれは急務だと考えるべきだろう。
私はタクシーを捕まえるために、慌てて駅の方へと歩き出した。

***

「遅いわよ!」

空港の玄関ロビーのソファで、メイは足と腕をそれぞれ組み、女王様然とした空気を醸しながら私を迎えた。
自衛のためか、その左手には仕事用の鞭がぎちぎちと握り締められている。

相当ご機嫌斜めであるのは、一目瞭然だった。

「今の案件が片付き次第、飛行機に乗る……と聞いていたのでな。早くても明日だと踏んでいたのだよ」
そんな弁解を添えて、私は大人しく軽い謝罪を口にする。

乗る前に連絡をくれたら良かったのに――と漏らすと、彼女は憮然として言い返す。
「私が飛行機に乗ったのは、こちらの早朝だったのよ。パパに迷惑がかかるじゃない。」

確かにそうだが、迎えに行くのは私なのだから、私の家の留守電に入れてくれていてもいいではないか――
そう言い返したかったが、今のタイミングでそれをするのは良くないと判断して、私は口を噤む。

長時間待ち続けていたのだから、彼女の機嫌が悪いのは目に見えている。
多少理不尽さを感じても、ここは刺激しないのが得策だと長年の経験が物語っていた。

私はそ知らぬ顔をしてその場にあった荷物を全て手に取ると、彼女を外のロータリーへと案内する。

「レイジの車じゃなくて、タクシーなのね」
タクシーよりも私の運転を好む彼女が、今のご機嫌斜めな状態でそのことを知ると
なおさら臍を曲げるのではないかという懸念はもちろんあった。

だが、アルコールが抜けていない状態での運転は、法を司る公務員にとって当然のタブーである。
ここは淡々と事情を説明して、納得してもらうしかない。
「先刻まで飲んでいた。まだ若干、酒気を帯びているはずだ」

この国は、飲酒運転に厳しかったわね――メイはそう呟いてため息をつく。
「だから先に連絡しておいたのに」

素直に、すまない、と小さく謝罪を述べて、私が彼女に乗車を促すと
ムッとした表情ながらも、彼女は車に乗り込んだ。

彼女は窓際に荷物を置いて、車の中寄りのところに腰を落ち着ける。
大柄な私は彼女に隣り合うような形で後部座席に腰を下ろした。

行き先を告げると、運転手は目的地に向かって車を走らせた。

彼女は黙ったままで、私も話題を見つけられず、沈黙が訪れる。
運転手も、メイの刺々しい空気を察してか世間話を振ってこようとはしなかった。

残ったアルコールとさまざまな種類の疲れが、この静寂と揺れを眠気の要素に取り込んでいく。
だんだんとうつらうつらとなりながら、私は右隣から、仄かにいい匂いが漂うのを感じた。

よく知ったメイ自身のそれと、彼女のつけているシャンプーか香水の――柔らかい植物のような、仄かな香り。
安堵を引き出すようなそれに、私はうっかりと傾いて体重を預けてしまいそうになる。

だが、望むままにそうしてしまうと、本人の気分としては不機嫌にしているはずの匂いの主に
得意の鞭を見舞われるだろうと予測できたので、私は必死に身体を戻そうと残った意識を集中させた。

空港から狩魔の屋敷までの約1時間、私はそうして眠ったのか起きていたのかよくわからない状態を続けていた。

***

車から降りても、彼女は不機嫌なままだった。

目の前の令嬢は、とげとげとした空気を発してずんずんと屋敷の玄関へと進んでいく。
私はすっきりしない頭のまま、彼女と自分の荷物を両手に持って彼女の背中を追いかける。

少なからず理不尽を感じつつ、しかしそれも毎度のことだと諦めのような笑いを漏らしつつ
私は彼女が開けたままにしたドアを潜って、勝手知ったる屋敷の中へと入っていった。
 
 
2階への階段を上り切ると、私は数歩前を歩いていたメイを呼び止めて荷物を渡す。
さすがにこの時間に、レディの部屋の前まで行くわけにもいかないと判断してのことである。

相変わらず憮然としたままの彼女は、その表情のまま形だけの礼を短く述べた後
自分の鞄を持ち上げてその場を去ろうとした私に、低い声でぽつりと声をかけた。

「お盛んなようね」

とっさには意味がわからず、
彼女の表情に怒りや苛立ちよりも冷たさや侮蔑の方が多く含まれていることに、私はその時漸く気が付いた。

――“フケツよ。”
無言のままにそう告げられているのだと感じ、思い当たる節のある私は、背中だけで嫌な汗をかく。

それでも、その辺はうまくやっているという自負もあったため、
私は法廷でしらを切りとおす時のような涼しい表情で、その場をやり過ごそうとする。
「何を言われているのか、思い当たらないな。」

だが、私は彼女を甘く見過ぎていたのだと、彼女の返答で痛感する。
「残り香が、この前と違う」

言われて、私は数歩後ずさる――“残り香”とやらを感知させない程度のところまで。
「今更逃げても、遅いわよ。車の中で1時間も、その匂いを隣で浴びていたのだから。」

7つも年下の妹弟子が、勘の鋭い女性特有の目で私を見据えている。
まだまだコドモだと思っていたのに、そこにいる彼女は、すでに一人前の女性の顔をしていた。

「……長く続かないだけだ」
観念して私は事実を暗に肯定し……一方で無茶をした結果ではないことを主張する。

それを聞いたメイは、忌々しそうに深いため息をついて、小さく呟いた。
「だとしても、許せないわね」

狩魔の人間として相応しくない行為だと責められるのだろうか――私は思わず、全身を硬くして身構える。
だが、彼女が次に出してきた言葉は、そんな力が全て抜けてしまうくらい、明後日の方を向いていた。

「私が知らない経験をレイジだけ積んでいるなんて……ずるいにも程があるわ!」
一転、声を荒げ、“勝負”に負けたときのような激情でメイは私に食ってかかる。
そういう問題だろうか、と私は思わず心の中で突っ込みを入れた。

さっきまで大人の顔をしていたのに、「ずるい」と言う彼女の顔は、明らかに子供らしいもので。
やっぱり「妹」は「妹」なのだと、私は思わず微笑ましい気持ちになった。

「君もそのうちに、自然と経験できていくことだ。」
彼女は整った容貌をしているし、攻撃的な性格をしているが――そういうのが良いという男は探せばいくらでもいる。
もう少し時間が経てば、そういう機会にも十分恵まれるはずだ。
――私は自然と湧いてきた微笑ましいような寂しいような気分を、心の中でかみ締めた。

だが、その気分も僅かな時間のことで、彼女の次の言葉に、私は再び慌てふためくことになる。

「“そのうち”じゃなくて……今すぐ、経験しなきゃならないのよ!」
そう言って踵を返し、携帯電話を取り出しながら部屋に戻ろうとするメイの姿に、私は昼間の師の言葉を思い出す。

――未熟な者は、自分よりも成熟した人間の真似をしたがるものだ。

先生は、私にメイの手本になるように言ったわけではなかったのかもしれない。

私が自由になる時間に適当に遊んでいることは、誰にも話していない。
先生にも、今のところ言う必要はないだろうと、一切報告してこなかった。

ただ先生は、ちょっとしたヒントから色んなことを見通すことのできる方だ。
もしかしたら、大方のことは気付いておられたのかもしれない。

その上で彼女に「悪いこと」を真似させるなと、そう仰っていたのではないか?
唐突に、私の脳裏にそんな仮説が浮かび――恐らくそれが間違っていないだろうという、妙な確信を同時に得た。

だとすると……このまま放置していては、メイだけではなく私も――彼女とは違った意味で大変なことになるに違いない。
「ちょ……ちょっと待て、メイ!」
「何よ」

振り返った彼女は、忌々しげに私を睨み付ける。
“兄”の立場として嗜めるように、私も彼女を睨み返した。

「まさか、その……そのような、アレ……を、するつもりではないだろうな」
だが、出てきた言葉は年長者の威厳など感じられない、たどたどしいものだった。
「今更、何を恥ずかしがっているのよ。」

メイは言葉も目線も冷ややかに、私をばっさりと切り捨てた。
「その通りだけど、異議でもあるのかしら?」

「大有りだ!――そういう事は、ちゃんとしたパートナーと順序を踏んで」
「それくらいはちゃんとするわよ。――安全そうなのを、適当に見繕って。」
何重もの意味で恐ろしいことを平気で言ってのける彼女に、くらくらと眩暈がする。

「そういうものではないだろう」
私は動揺を覚えつつも、必死に食らいついて彼女に言い募る。

「パートナーは、この男とならば運命を共にしていいと思えるほどの相手でないと――」
「だったらあなたは、今の恋人のことをそう見做しているのかしら?」

痛いところを突かれ、私はぐうの音も出なくなる。
私が今晩まで恋人と見做していた相手は、会話などから情報を十分に引き出して
司法とも犯罪とも縁のない、それでいて後が面倒でもなさそうな人柄の女性。
そういう相手を選ぶのは、いつものことだった。

つまり私の選んできた“恋人”は、自分の将来に影響がないことを確認した上で付き合った、
まさしく「適当に見繕った、安全そうなの」だったわけである。
彼女のことを、とやかく言える資格など、本当は私にはないのだ。

それでも無理矢理睨み合っていると、しばらくしてメイが少しだけ俯き、ゆっくりと視線を下へと向けた。
「――そんなに心配だったら」

メイの双眸が、まっすぐに私の視界に飛び込んでくる。
「あなたが相手になればいいのではないかしら?御剣怜侍」

冷ややかなようでいて真剣さに溢れる青灰色の瞳は――たちまちに私の全てを釘付けにした。

その言葉と視線には、確かにそれが一番安全かもしれないと思わせるような力がある。
それがいい、と私が彼女に手を伸ばしそうになるような、魅惑的な何かが。

だが、その納得はほんの一瞬だけで、心の中で“いやいや、ちょっと待て!”と突っ込むもう一人の自分が
先生の姿を私の脳裏に浮かべて、私の脳内を薄ら寒い恐怖で埋め尽くしていく。

真剣な交際ならまだしも、そのような関係でもないのに師匠の娘に手を出したとなると
先生に顔向けができなくなるではないか――
そう感じて、私はすぐに頭を切り替えて、再び“兄”の心で彼女と向かい合った。

「7歳も年下の君を、そういう風に見ることはできない」
そう告げると……常々気にしている年齢のことを言われたためか、メイが心底傷ついた表情を見せる。
だが、それも一瞬だけのことで、すぐに憤怒へと変わった。

このまま話を終わらせてしまえば、恐らく彼女に、そして彼女と私の関係に、良くない影響を及ぼすだろう。
そう感じて、私はできるだけ真心が伝わるように意識しながら、彼女に向かってさらに言葉をかけた。

「運命を共にできると思い合えるような相手とでなければ、幸せでもないし空しいだけだ。
  私はそれを知っているから、できれば君には……幸せな経験だけを積み上げて欲しいのだよ。」
だから、私では駄目だ――そう付け加えると、メイはぐっと立ちすくむ。

ただ、その様子は怒りが収まったというわけではなさそうで、むしろ更なる怒りで胸を膨らませたようにも見えた。
数秒の沈黙の後、彼女は吐き捨てるように言葉を発した。
「もういい。」

渋々ながらも納得してくれたのだろうか――と安堵したのもつかの間。彼女は短くぽつりと言葉を続けた。
「やっぱり、自分で探すわ」
そう言って彼女は再び身体を翻し、そのまま自室へと歩を進めていく。

往生際の悪い彼女に、私はやれやれという思いと共に言葉をかけた。
「もし本当にそれを実行したら、先生はどう思われるだろうな」

私にとってそうであるように、メイにとっても先生の存在は大きいものだ。
彼をよく知るメイは、私の問いに的確な答えを出すことができるだろう。

そして――実際にその答えを導き出したのだろう。
振り向いた悔しそうな目が、ギリギリと私を睨み付けた。

「――レイジの、バカ!」
しばしの沈黙の後に、爆ぜるようにそう言って立ち去っていくメイの後姿を、私は黙って見送る。

先生の名を出して釘を刺しておいたのだから、軽率な真似はするまい。
嵐が去ったと確信して、私は小さな溜息をつく。

ただ、その安堵の中に異なる要素があると気付いて、私はしばし思いを巡らせた。
彼女を治めることができたことだけではなく、まっすぐな「誘惑」を撥ね退けた時に一瞬見せた
矜持を傷つけられたような彼女の表情――あれを思い浮かべても、私は何故かほっとするのだ。

妹同然の彼女を傷つけて、私は喜んでいるというのだろうか。

だとしたら、ひどいものだ。
やはり、私はまともな人間ではないのかもしれない――ぼんやりと、そう思う。
 
 
けれど天に誓って、私は彼女を憎んだり疎んじたりはしていないとも言い切れる。
彼女は、私にとって大事な“妹”だった。
 
――だったら、この感情は一体何なのだろう?
 
 
その場で、感覚を反芻しながら答えを手繰り寄せるが、一向にそれは見えてこない。

しばらく考えているうちにふと時計を見ると、そろそろ日付が変わる時間だった。
明日の仕事のことを思い出して、私は思考を中断した。

今夜はこの屋敷で休ませてもらうことにしよう――
自由に使っていいと言われている寝室へと、私はそのまま足を運んでいった。

 

<おわり>