「薄明」

 

一緒に暮らしていた姉が、「遠くの学校へ行く」と告げて突然冥の前から姿を消した後
冥は屋敷でひとりぼっちとなった。

屋敷には母親も住んでいたが多忙な人で、少なくとも幼い冥が起きていられる時間帯には殆ど外出しており
仕事で数日家を離れることも多かった。

家事や雑事を任された使用人は数人いたが、たまに日本からやってくる屋敷の主――冥の父親のことを
彼らはひどく恐れており、娘の冥に嫌なこともしなかったが、親しく接してくるわけでもなかった。

熱心ではあるが、使用人と同じ理由で親身にはならない家庭教師。
そして、5歳にしてすっかり捻くれてしまった天才少女を持て余す、学校の教師や同級生たち。

冥自身もどうやって歩み寄れば良いのかわからぬまま、ただ孤高を貫き続ける日々だった。

それなりに納得してそうしていたつもりだったが、やはりどこか寂しく感じていたのだろう。
父親に、6歳の誕生日に欲しい物を尋ねられた時、冥は間髪を入れずにこう答えた。

――弟か妹がほしいの。

難色を示した父の気配を悟って、冥は張り合いのある勉強相手が欲しい、とその動機を語り
無理ならばペットがいい、と別のものを提示したりして、父の機嫌を損ねぬように努める。

冥の訴えを黙って聞いていた父は、勉強相手ならば心当たりがあると告げ、
その数週間後には、身寄りのない検事志望の少年を冥の屋敷に届けてくれた。

彼――御剣怜侍と対面する前日は、なかなか眠ることができず
当日、窓からそれらしき少年の姿を見つけた時、冥は思わず外に駆け出して、彼を迎えた。

悲惨な事件で父親を亡くしたせいか、御剣怜侍は愛想の悪いコドモだった。
それでも他の人間のように冥を敬遠することはなく、冥が興味深々に後ろをついて回っても
気まぐれに連れ回しても、面倒くさそうではあったが特に拒絶することもなかった。

道理を弁えぬ行動を取った冥を叱り、叱られた理由を理解した冥の頭を撫で、時に抱きしめる。
忙しい父や母には見せることのできない姿を見せていくうちに、
彼の方からも他人には見せられない弱さを見せられ、それを受け止めていくうちに、
いつしか冥は、彼に絶大な信頼を寄せていた。

年を重ね、彼が異性の他人であり、「狩魔の娘」たる自分の存在意義を脅かす者でもあることを悟ってからは
素直に接することが困難になっていったが……それでも冥にとって彼が特別な存在であることには変わりなかった。

そして、二人が検事となり、互いにとって辛い真相を目の当たりにしても、やはりそこに変化はない。
冥にとって、御剣の存在はいつも暗闇の中のほのかな光のようなものだった。
 
 
大きな腕に抱かれながら、冥は静かに目の前の暗闇を眺めていた。

どうやら御剣と話し合いの途中で、泣き疲れて眠ってしまったらしい。
冥がスーツを掴んだまま眠ってしまったため、御剣は身動きをとることができなくなったのだろう。
添い寝をしているうちに彼も眠ってしまい、今度は冥が目を覚ました……どうやら、そういう状況のようだった。

しばらくぼんやりと、冥は御剣とのこれまでのことを想起して、思いを巡らせていたが
空調のせいか、だんだんと喉の渇きを感じるようになった。

よく考えると、泣き腫らしたまま眠ってしまったし、化粧も落としていない。
そう気付いて身繕いをしようと、冥は御剣の腕をゆっくりと外して起き上がり、ベッドを降りようとする。

だが、身を乗り出した瞬間に腕を掴まれ、強い力でベッドの中にに引き戻される。
「ここに、いたまえ」
眠そうな声の主が、手放したくない玩具でも抱くように、冥を腕の中に閉じ込める。
どうやら冥が動いたことで、彼を起こしてしまったようだった。

「そんなに力を込めなくても、どこにも行ったりしないわよ」
からかうようにそう伝えると、御剣は指先にぐっと力を入れる。
「こうしておかないと、これが現実だという実感が持てないのだ」
その声と吐息が、冥の耳元にふわりと触れた。

何故かそこで唐突に、冥の脳裏は極寒の檻の前で起こった出来事を映し出す。
ふたりきりの場所で、同じ布に包まって、レイジの顔が近くにあって――

感覚がなくなりそうなくらいに冷えた手を、大きな手に包まれたこと。
愛しそうに細められた目がゆっくりと近付いてきたこと。
そして直後、唇に何かが触れた感触と、じんわりと感じた体温。

あの時のことが、五感に蘇る。
その瞬間、冥は全身の体温が一気に上昇したのを自覚した。

「……メイ?」
そう訊かれて、冥は自分が御剣から身体一つ分遠ざかったことを知る。
御剣の声が不安そうに揺れているが、自分を覗き込む男の顔を直視することも自分の真っ赤な顔を曝すこともできず
冥は俯き、重力に従って落ちてきた前髪で、顔を隠す。

「ああ、馴れ馴れし過ぎたか。すまない。」
これまで散々、他人だと言い続けたせいだろうか。
冥が何も言えずに困惑している間に、御剣は独りで結論を出して身体を引こうとする。

誤解させたままでは後悔する気がして、冥はとっさに御剣の身体に手を伸ばす。
掴みやすい3段の白布をむんずと握りしめると、御剣が反動でぐっと呻いた。
「離れろだなんて、一言も言っていないわ」

責めるようにしか伝えることができず、冥は内心もどかしい思いに駆られる。
御剣の方は、そんな冥をしばらくじっと見つめた後に、落ち着いた声で冥にこう尋ねた。
「だったら……私はどこまで踏み込んでいいのだろうか」

そこでふと、冥もあることに思い至る。
――二人の関係が、非常に曖昧なものであることを。

先程までのように身体を寄せて眠っていても、少なくとも冥には特に抵抗はなかった。
かといって、御剣を異性として認識した途端、身体が触れていることを意識してしまう。

同業の仲間、競争相手、兄弟弟子――そう呼ぶには、よりプライベートに近い関係。
姉弟のようだが、結局は他人。
とはいえ幼馴染や友人と結論付けるには、互いに――少なくとも冥の方には異性として意識している部分もある。
しかし、恋人同士というわけでもない。

「君は、私に何を望んでいる?」
冥が答えに窮して黙り込んでいると、御剣が言葉を変えて再び尋ねる。

だが、冥には答えるべき言葉がない――答えられる立場にもないと感じていた。
「……何も望んでいないわ。」
「それでは、意味がない。」
御剣は溜息をつくと、冥の目を見て諭すように言葉を続けた。

「私は君の人生に関わっていきたい。だが重荷となって君を苦しめるのであれば、意味がない。
  だから、何でも構わない――君が私に望むものを教えて欲しいのだよ」

“兄弟”でも“競争相手”でも好きなものを――そう付け加えて、彼は静かに笑った。
それ以上の例が挙げられなかったことに意図を感じるのは、冥の考え過ぎだろうか……。

御剣は冥に、狩魔豪の娘としてではなく一人の個人としてそばにいて欲しい――
そのために、関係が安定させるために適切な型を提示してくれ……そう言っているのだろう。

だが、加害者側の人間の望む形に被害者が合わせるなどということは、何かが違う気がする。
後ろめたさから……冥は再び、回答を断った。
「私に合わせる必要はないわ。あなたの望むようにすればいい。」

すると、御剣の目が軽く冥を睨みつけた。
「私が望むのは、君の正直な本音だ。どうか柵に囚われずに答えて欲しい」
…… と言っても、それは怒りによるものではなく、目つきの良くない彼が真剣になっている時のものだ。

冥の後ろ暗さに気付いた上で、御剣は答えを求めている。
だとしたら、冥にそれを拒む選択肢は残されていなかった。

冥が御剣の求愛を拒んでから、約一月半。
それ以後、御剣が冥を恋愛対象として見ているのか、当事者である冥には見通すことができない。

それでも、自分に正直になるのであれば……。いや、けれど……やはり、もし――

しばらく葛藤を続けて、冥はようやく答えを決めた。
だが、それを声にして伝えようとすると、息が詰まって言葉がでなくなってしまう。

左手で首に揺れるクラバットを掴み、廻り込んだ右手で男の後頭部の髪をぎゅっと握る。
男が抗議の声を上げる前に顔を近付け、御剣の唇に己の唇をほんの少し触れさせて、身体を離す。

それが冥にできる、精一杯の意志表示。
「これが――答えよ」
 
 
やっとの思いでそう告げたのだろう――冥はそれだけ言うと御剣の両肩を握りしめたまま、再び下を向いてしまった。
そのため御剣には、彼女の表情を窺い知ることはできない。。

ただ、軽く柔らかい感触が唇に焼き付いており、
目の前の彼女の髪の隙間から見える両耳は、真っ赤に染まっている。
肩を掴む指先はわなわなと震えており、全身から動揺が見受けられた。

「……それで、いいのか?」
例の事件への後ろめたさから、無理に御剣の望む答えを選んだのではと不安になり
御剣は確かめるように、冥へと問い返す。

「ダメなら、こんなことしないわ」
顔を上げて睨みつける瞳は、憎しみや怒りとは別の感情を御剣に伝える。
恐れたものは存在していないことをそこから感じて、御剣は内心で安堵した。

「あなたこそ、後悔しても知らないわよ?」
メイの表情にちらつく、抑え込まれた不安を拭うように、御剣はメイの頬に手を添える。
メイは目を閉じて頬を強張らせながら、こわごわと御剣の手に身体を預けた。

彼女が外見や言動よりも臆病だと知ってはいたが、御剣が見てきたのはその片鱗だけの場合が多かった。
しかし今、御剣の目に映るメイの所作や表情からは、不器用な彼女が怯えながらも自分に心を預けようとしているのがはっきりわかる。

その表情と仕草がどうしようもないほど愛しくて、御剣は再びメイを引き寄せた。
噛み付くように唇を奪うと、メイは戸惑うように身体を震わせる。

だが、まるで逃げないと意思表示するかのように御剣の服をぎゅっと掴んで彼に応えた。
その華奢な五指の隙間に指を滑り込ませて上から握ってやると、メイは服から指を離して御剣の手を握り返す。

しばらく触れる感覚を楽しんでから顔を離すと、顔を真っ赤にして身体を硬直させたメイが、ぎこちなく御剣から視線を逸らす。
そのまま、何か言いたげにぱくぱくと口を開閉させていた彼女は、数十秒そうし続けてから、ようやく小さな声をあげた。
「……うそつき」

どういう意味かと問いかけるように御剣がメイの顔を覗き込むと
切羽詰まった彼女は逃げ込むように御剣の胸に顔を埋め、繋いだままの手をぐっと握り直した。

「どんな間柄でも構わないだなんて、嘘じゃない……!」
どうやら冥は、御剣が隠し続けてきた情熱の一端を目の当たりにして、大いに戸惑っているようだった。

ぐいぐいと身体を押しつけてくる冥の旋毛を温かい気持ちで見つめながら、御剣は彼女に答える。
「嘘ではない。愛しているから、私はどんなものにでもなれると思ったのだ」

御剣にとってその言葉は半分本気で、残り半分は強がりと冗談の混合物だったが
余裕なく気持ちを曝け出している冥には、どうやらお気に召さないようだ。
「馬鹿の……馬鹿による、……・馬鹿げた発想だわ」
いつもなら小憎らしいはずのその口上も、手を繋いだまま消え入るように呟かれては、愛しいばかりだった。
 
 
きっと、これで“めでたしめでたし”とはならないのだろう。

御剣の心の闇、そして冥の心身に刻まれた傷――それぞれが、とても根深い。
それらが顕在化する度、二人の関係も揺らぐことになるのかもしれない。

それでも、御剣はメイと一緒に歩いていくことを決めた。
たとえ足元が揺らいでも二人で支え合い、話し合って進めば良いのだと。

――同じ決断を下した彼女が、どうか自分と同じ思いでいるように。
静寂の中身体を寄せ合いながら、御剣がそう祈っていると
しばらくして、メイが身体を離してゆっくりと顔を上げた。

御剣の目を直視するその瞳には動揺も狼狽もなく、ただ静かに薄明を映している。
だが、御剣の手を取った両手とその声は、ほんの少し、震えていた。

「……傷跡、見てくれる?」

その言葉はおそらく、彼女の抱えるものを御剣と共有していくという決意。
そして、全てを委ねるという意思表示――御剣にはそう感じられた。

「ああ。全て、見せてもらおう」
御剣が唇を寄せると、冥の唇が吸い寄せられるように重なる。
ぎこちなく御剣に応える彼女を愛しく感じながら、御剣はその身体をベッドの上に沈めていった。

夜が明けるまで、まだまだ時間はある。

<おわり>