「Tear」

 

「本当に仕事の話をするとは思わなかったわ。」
御剣が一通り仕事の話を終えると、メイがどら焼きの袋を開封しながら不機嫌そうに溜息をつく。
喜んでいるのか、菓子の方はこれで3つ目だった。

「厄介な事件には、文書に残せない類の話がつきものだろう」
だから何度も連絡を要請していたのだが、と付け加えると、冥が気まずそうに千切ったどら焼きを口に入れる。

「まあ、雑談をする機会があればいい……と思っていたのも事実だ。」
その言葉には反応せず、冥は整った動作で湯呑を手に取り緑茶を啜った。

その様子を拒絶ではないと解釈し、御剣は冥に幾分砕けた声色で声をかける。
「……元気か?」
「見ればわかるでしょう?」

部屋はあまり広くはなく、御剣はソファ代わりにとベッドへ腰掛け、
冥はそれに向かい合うように備え付けの椅子に座っている。
身体を乗り出せばすぐに手が届きそうな距離に二人はいるので、確かに冥の様子ははっきりと見えた。

「そうだな……少し、やつれて見える。」
正直にそう答えると、冥は難しそうな表情で首を振る。
「気のせいよ」

「そうだろうか……特に、目のあたりが」
俯きがちで暗くなっている部分を確認しようと、手を伸ばす。
すると、恐らくその手が視界に入ったタイミングで――冥が弾かれたように顔を上げた。

それ以上手を伸ばす必要もなくなり、御剣は身体を引いて元に戻す。
疲れを帯びた目が、しばらくの間驚いたように御剣に視線を注いだ。
しかしすぐに我に返ると、彼女はうろたえるように目線をずらして外方を向く。

あまり覚えのない彼女の様子に、御剣は見過ごせないものを感じて尋ねた。
「どうした?」
「少し、夢見が悪かっただけよ」
視線を合わせて顔を覗き込もうとした御剣に対して、
メイは心配無用、と言いたげに伸ばした左手を軽くあげた。

「夢見、か……」
「あなたには、関係のないことよ」
座り直して再びすらりと背筋を伸ばしたメイには、すでに動揺の色はない。

だが、いくつかの場面では視覚に頼って彼女の心境を読んではならないことを、御剣は経験上知っていた。
恐らく彼女は、見た目ほど元気ではない。

少し離れたデスクの紙袋から、次のどらやきを取り出そうと、メイが立ち上がって数歩歩く。
御剣も席を立ち、彼女に近付いた。

「レイジも食べたいの?」
気配に気付いたメイが、振り向いて問いかけてくる。
だがそれには答えず御剣は腕を伸ばし、求めるものを掴んで引き寄せた。

「……何のつもりかしら?御剣怜侍」
体格差のある、大きな両腕に抱き込まれると、メイは落ち着いた声でそう尋ねる。
「夢見が悪いと聞いたものでな」

「昔、私の夢見が悪いと、君はよくこうしてくれたではないか」
あの時の感謝と今の様子への心配を込めて、腕に少しだけ力を入れてメイを抱き締める。
「あの頃とは、私達の年齢も状況も、全く違うわ」
静かな声の主は言葉とは裏腹に抵抗することなく、御剣の腕を受け入れているように見えた。
……しかし。

「何が変わろうが、私は君が辛そうにしているのを、指を銜えて眺めている気はない」
御剣はもっと彼女を強く抱き締めたい衝動に駆られ、右手をのばしメイの肩を掴んで力を込める。
すると突然、足元で鈍い音と鋭い痛みが響きだした。

「うおっ!」
どうやら渾身の力で脛を蹴られ、御剣が随意に込めていた腕の方に力が回らなくなる。
足を押さえ込んで蹲った御剣の視界に、メイの足が数歩後ろに引く様子が映った。

顔を上げると、御剣が掴んだ右肩に、かばうように手を当てるメイが御剣を睨んでいた。
――もしや、古傷を痛くしたのだろうか。
謝罪の言葉を、と御剣は口を開くが、それよりも先にメイの金切り声が部屋の空気を支配した。
「何度言ったら理解できるの、御剣怜侍!」

何を言われているのか今一つはっきりと把握できず御剣が面食らったままでいると
そのまま、メイが叫ぶように声をあげ、言葉を続けた。
「あなたには、私に情けをかける謂れはないと、この前説明したはずだわ!」

「……私が君にどういう感情を抱こうが、それは私の自由だ」
突然の激昂につられそうになりながら、御剣はそれでも平静に言葉を返す。
すると、メイが呆れたように肩をすくめて、蔑むような視線を御剣に投げかけた。

「馬鹿は何度説明しても、馬鹿ゆえに理解できないものなのかしら」
メイは溜息をついて元の椅子にどさりと座りこむと、足と腕をそれぞれ交差に組んで胸を張る。
「いい?理解するまであなたの脳髄に叩きこんであげるわ。」

突き刺すように、冷たい視線が煌めいて御剣の目の奥を射抜いた。
「この前の話ならば、私は理解しているつもりなのだが」
そう言い返すと、メイは再び呆れたように息をつく。

「それでもわかっていないのならば、別の例をあげて説明するしかないわね」
メイはしばらく考え込むように頬に手を当ててから、視線を上げて御剣と目を合わせた。

「パパは、右肩に残った銃の弾が決め手となって逮捕されたのよね」
これはまた、気の重いことをを例に挙げてくるものだな――と御剣は内心で呟いたが、表面にはそれを出さない。

御剣が大人しく頷くのを見て、メイは次の言葉を口にする。
「その後、弾は摘出されたけれど……亡くなるまで傷跡は残った。」
確かに……線条痕の確認のため、狩魔豪は勾留中に摘出手術を受けたと聞いた。
だが、御剣は傷跡が残ったのかどうかは知らない――あってもおかしくはないと思うが。

御剣が再び頷くと、メイはかばうように、そっと自分の右肩に手を当てた。
「そして、私の右肩にも、同じものがある。」
それは1年前、彼女が殺人犯から、裁判の妨害を狙って撃たれた場所。

「……痕が、残ったのか」
怪我が治ったと報告の連絡を受け、その後も彼女とは電話や手紙で交流はあった。
だが、傷は跡が残らず消えたかどうか……相手が女性であるため、心配しつつも聞いてはいけないような気もして
御剣からは尋ねなかったし、メイの方でもそのことを話題にすることはなかった。

メイは静かに頷くと、肩に手を当てたまま再び口を開く。
「あなたのお父様を殺した男の罪の証と同じ印を持つ、同じ検事の娘――」
そこまで言葉にすると、メイがほんの一瞬だけ、窺うように御剣の方を見る。
しかし、じっとメイを見ていた御剣と目が合うと、逃げるように下を見てメイは言葉を続けた。

「少なくともひと月前、あなたは私に男女の情を抱いていたようだけれど
――この傷を見ても、あなたは私のパパを思い出さずに私を抱くことはできるものかしらね」
少し投げやりに発せられたその声の響きは
決して問いかけではなく、“できるわけがない”という暗黙のメッセージを御剣に告げていた。

今までの話を合わせて考えると、メイは父親の罪にまつわる後ろめたさから、
そして、御剣があの事件の記憶から解放されるようにと願い、御剣から離れようとしている。

だが御剣には……今の言葉の響きが、ただ後ろめたさや罪悪感だけで構成されたものではないように聞こえた。
どことなく、彼女自身の気持ちの揺らぎが、そこに存在するような気がしたのだ。
そう感じて、御剣の頭の中に一つの考えが思い浮かぶ。

例えば、御剣が彼女の傷跡を見て、事件や彼女の父のことを思い出して動揺を表したとする。
その結果、おそらく一番傷つくのは――
自問への答えが見えた瞬間、御剣は立ち上がり、目の前の“答え”である人物に再び手を伸ばしていた。

再度抱きすくめられて、メイは腕の中から逃れようと、暴れもがく。
「御剣……怜侍!あなた、私が言ってきたことが理解できないの?」
だが御剣の方は痛みへの構えができているので、今度は簡単には、腕を離さない。

「理解しているとも。……私と君が関わり合うことに、君が多くの懸念を感じているのだと。」
あやすように、手の先でトントンと軽く背中を叩いてやると、そのうちに身体の動きは静かになってくる。
それでも叫ぶように、メイが御剣の胸に向かってくぐもった声をあげた。
「懸念ではなく、起こりうる現実だわ!」

「そうだろうか?私にはそうは思えないのだが」
「それは、あなたが馬鹿で楽観的だからよ!」
再び暴れそうになるのを、ぐっと抱きしめて押さえつける。

メイが大人しくなるのを見計らって、御剣は彼女に一つの提案をすることにした。
「では……そうだな。私がバカで楽観的かどうか、私の言い分を聞いて判断してもらおうか」
ここまでほとんど、メイは御剣に反論の機会を与えなかった。
そして御剣も、彼女の本心を知りたくて、ほとんど言葉を挟んでこなかった。

だが、彼女の中に渦巻く多くの思いを知った今、彼女に伝えておきたいことがたくさんある。
それを受け入れてもらうため、御剣はその準備へと取り掛かることにした。

「私が君の傍にいる限り、私はその記憶と苦悩から解放されない……君はそう考えているのだな」
「……そうよ」
メイの確認を得て、御剣は言葉を続ける。

「だから先月、君は私の思いを受け入れなかった。そして以後、私と距離を置こうとしている。」
今度は言葉ではなく、メイは首を縦に振ってそれを肯定した。
その身体が小さく震えていることに、自身は気付いているのだろうか。

腕にかすかな振動を感じながら、御剣はできるだけ淡々と、メイに告げた。
「だがそれらの行動の前提は、あくまでも私が君といることを苦悩だと感じている場合のことだ」

「先日も言ったが、私自身は……君がいるから強くなれるし、笑っていられると感じている。」
そう声をかけると、それまで比較的自由だというのにそこだけ動かそうとしなかったメイの顔が上がり
心底から、驚きと呆れの感情を表明した。
「やはり、あなたは馬鹿で楽観的だわ」

「まだ、話は終わっていない。それに私は本心からそう思っているのだ」
本心からの思いをバカと言われてしまうのは、やはり面白くない。

御剣が若干むきになって言葉を返すと、メイの方は淡白に、それでいて撥ねつけるような口調でそれに応じる。
「あなたは本当の思いに気付いていないだけ。それをごまかそうと無意識に……反対の思いでいるのよ。」

「私ですら知らぬ思いを、知っているというのだ。……当然君には、提示できる証拠があるのだろうな?」
そう尋ねると、メイは……御剣が思った通りの返事を寄越した。

「だから……前にも言ったでしょう?
地震で気絶したことが、あなたが気付いていない思いがあるという何よりの証拠だと」
メイは顔を上げたまま、苛立たしそうに御剣を睨みつけている。

――突破口が、現れた。
御剣は心の中だけでニヤリと胸を躍らせる。
睨み合ったままのメイにそれを悟られないようにしながら、御剣は神妙に目を閉じた。
「確かにアレは、私の中に尋常ではない何かが……未だに存在していることを示していた。」

「だがあの時、君は傍にいなかった。
残念ながら、アレを引き起こした原因と君の存在を結び付ける証拠にはならないな。」
そこで目を開き、法廷で弁護人をあしらうかのような笑顔で……御剣はメイの主張を退ける。

「よって、私は君に対することについては……感じるままを私の本心として採用する。」
そう告げると、メイは言い返す言葉がないのか、己の肩の代わりに御剣の腕を握りしめて動揺の表情を見せた。

「……さて、君の前提は無に帰るわけだが」
それ以上の反応を待たずに、御剣はさらに言葉を続けた。
「確かに、私と父は、君の父上との間に深い因縁がある。」

「だが君と父上は別個の人間で、そもそも君自身はあの事件に一切関与していない」
メイはその言葉を聞いて、不愉快そうな、それでいて複雑そうな表情を垣間見せる。

御剣の指摘は事実なので、恐らく言い返す余地は存在しないのだろうが
それでも感情的な部分では、そう簡単に納得できるわけはずもない……。
発言した御剣自身その心情は理解できるが、それでも一度は彼女にこの“事実”に直面してほしかった。

同じ理由で、御剣はもうひとつの事実を突きつける。
「君の傷跡は、職務の途中に殺し屋に撃たれたものであって、父上と同じ意味を持つものではない」
それを聞くと、さすがにメイは追い詰められたような、潤んだ目で御剣を睨み返してくる。

話を聞く限り……彼女にとっては、夢に見てやつれるほど気にしてきたことでもあるし、
もしかするとそう意味づけることで、消えない傷跡の存在を受け入れてきたのかもしれない。

この2年ほどの間、メイは彼女なりの理由をつけて、多くの事実を納得させて歩みを進めてきたはずだ。
御剣の今の言葉は、恐らくそれらの理由や納得を崩しているだから、彼女が受け入れられなくても仕方がない。
たとえそれが、最終的には彼女を少しでも楽にしてやりたいと思ってのことだとしても。

それよりも、御剣が彼女に理解してほしいのは、より情緒的な部分のことだった。
ここまでのことは確かに大事なことではあるが、これから伝えることの導入に過ぎないと言っても良い。
メイの心の中に入り込むための小さな穴を開け、御剣は伝えたい言葉をそこに流し込んでいく。

「そもそも私が君を大事に思うのは、君が父上の娘だからではなく、
君自身と過ごした時間に、君が多くのものを私に与えてくれたからだ。」
強さと弱さ、そして厳しさと優しさ――彼女自身がもつ多くのものに、御剣は何度も救われた。
だからこそ、御剣は彼女を特別に思うのだ。

「だからきっと……私はその傷跡を見ても、君と父上とを重ねたりはしない。」
必要ならば今試してみるが……と御剣が覗きこんで問いかけると、メイは顔を真っ赤にして首を横に振った。
その所作から、彼女の気持ちが少し和らいだのだと、御剣は感じる。
彼の言葉は、幾許か彼女に届いているようだった。

試しに腕の力を緩めてみると、メイは特に動こうともせず御剣に身体を預けている。
御剣は添えるように優しく、肩に手を回してメイに語りかけた。
「もし最近の君の行動が、過去の記憶に囚われた私を思ってのことだったのであれば」

「離れるよりも、傍にいてくれた方が私は嬉しい。」
君を同じ暗闇に引きずり込むことになるのかもしれないが――
御剣がそう付け加えて苦笑すると、メイが御剣のクラバットに顔をうずめたまま、ぽつりと呟いた。
「私は、すでに闇の中にいるわ。」

「暗闇に取りこまれた人間には、きっとあなたを助けることはできない」
そこにあるのは拒絶でも罪悪感でもなく、絶望めいたものと不安のように聞こえる。
彼女が苦しんできたこと、そして御剣を思い遣ってくれていることを、御剣はその言葉と様子から垣間見た。

――暗闇にいる私もまた、メイをそこから救うことはできないのかもしれない。
御剣は、そう思って少し居た堪れないような気分を感じる。
だがそれでも、彼女が御剣を拒まないのであれば……彼の選ぶ答えは一つだけだった。

「君の傍にいると……たとえそれがどんな暗闇であろうと、私は幸せなのだよ、メイ」
耳元でそう囁くと、メイの両肩が小刻みに震えだす。

そのままぎゅっと抱きしめると、胸の中で呻くような声が小さく聞こえた。
それが言葉にならない嗚咽だと気付いて、御剣はメイを腕に閉じ込めたまま、肩を撫でてやる。

「だから、どうか……私から離れずにいてほしい」
そう語りかけると、はじめは堪えるように小さかったその声が、だんだんと大きくなっていき
ついには歯止めが利かなくなったように、叫ぶような泣き声と変わっていった。

彼女の母親の葬儀以来、御剣はメイのこんな声を聞いたことがなかった。
父親の葬儀の時は、そしてそれ以降も――彼女が父親のことで泣くことすらできていなかっただろうことを、御剣はふと想起する。

まるで、未だ気持ちの整理がついていないはずのその件に対する嘆きまでも吐き出すかのように声をあげ、
メイは御剣のスーツの上下を溢れる感情で濡らしていく。
彼女が黙って抱えてきたものの大きさを受け止めるように、御剣は身体全体でメイを包み込んだ。

そこにいるのは、検事ではない……ただの狩魔冥。
いつか検事局への復帰材料として見せられた、虚ろな表情で父親を見送る喪服の娘。
あの姿を追って検事局に戻り、1年以上の月日が経過して、今……ようやく会うことができた――

そのことを実感して、御剣は目頭を熱くする。
己の頬からメイの髪に吸い込まれていく水滴を見て、
御剣は自分もまた、真相を知って以来……はじめて涙を流したことを自覚した。

<おわり>