「Distance」

 

しばらく前から、二人の間を沈黙が支配していた。

目の前の男が、何かを言いたげに口を開く。
だが、すぐに躊躇うように口を鎖し困ったように俯いた。

冥は胸を張って腕を組み、御剣の葛藤を表情なく見つめているだけ。
だが……その胸中は、表に出している態度とは正反対に混乱を極めていた。

警護の申し出を断るだけのつもりが、いつの間にやら話が全く違う方向に逸れて、余計なことを言っていた。
途中でそれに気付いても、言葉が堰を切ったように止めることができず
言い切った後で、後悔だけが頭の中を支配する。

言ったことはほとんど全て、本当にそう思ってきたことだ――やたらと攻撃的な部分以外は。
このまま家族同然に馴れ合っていくことは、不自然で、許されてはいけないことだと思っていた。
だが、覚悟も準備もないまま、傷つけるような言い方で関係を断つつもりはなかったのに……。

とはいえ、口から出してしまった言葉を撤回するわけにもいかない。
事態は、動き出してしまったのだ。
だったらもう、冥ができることは……言えることは、ただ一つしか思いつかなかった。
――“だからもう、私に関わらないで”

動揺の中、自らに引導を渡そうと息を吸った冥の目前を――大きな影が遮った。
「おっと、そこまでだ」
見上げると、そこにいたのは冥と協力関係にある捜査官だった。
「ミスター・ロウ……」
緊張状態から解かれた御剣が、半ば茫然と割り込んだ男の名を呼ぶ。
男は険しい表情を見せながら冥と御剣を交互に見遣った。

「複数の部下から、アンタ達が言い合いをしていて……アネさんに報告ができないと連絡があったんでな」
狼は数歩下がって冥と御剣から等距離のあたりに立つと、若干厳しい口調で二人に告げた。
「兄弟喧嘩か痴話喧嘩なのかは知らねえが、捜査が終わってからにしてくれ」

「すまない、迷惑をかけたようだ」
揶揄されているというのにあっさりと謝罪する御剣の様子に、冥はイライラして大声をあげる。
「喧嘩じゃないわ!警護の件を断っていただけよ」
「フーン、なるほど……その件で揉めてたんだな」
狼は冥の声に全く動じず、腑に落ちたような声色でそう口にすると、御剣の方に向き直った。

「さっき、検事さんは日本側で、と言っていたが……狩魔検事の警護は、国際警察がやらせてもらう」
狼の言葉に、御剣は少し不服そうな表情を見せたが、すぐに首を振ってそれを納めた。
「……彼女は国際警察と協働中だ。そちらの判断を優先するべきだな。」
「理解してくれて何よりだ。」

完全に、冥の意向そっちのけで話が進んでいる二人の様子を見て、冥はギリリと鞭をしならせる。
あれ以上余計なことを口にする前に止めることができたのは助かった。
それは内心安堵しており、割って入った捜査官には感謝もしているが……。
複雑な思いも相まって、冥は更に苛立ちを募らせ鞭を床に打ちつけた。

「そ……そんなもの、必要ないわ!」
冗談ではない。誰かに護られなくても、カンペキに立ち向かえる。ひとりで対処できる。
そうではない、弱い自分を受け入れられるほど冥はオトナではなかった。

冥の鞭の音と金切り声に二人の男は会話を止めた。
御剣は落ち着いた表情で、諭すようにじっと冥を見ており、
狼もしばらく似たような表情で黙っていたが、ほどなく冥の方に歩み寄って口を開いた。

「国際警察にとって、アンタは大事な客人だ。
  俺が必要だと判断したからには、大人しく護られてもらおうか」
その口調から、冥が何を言っても警護をやめるつもりはないという意思が伝わってくる。

「お望みなら、アネさんの上司からそう命令してもらうように手配するぜ?」
それは冗談だと表情から察してはいたが、冥には笑えないし、本当にそうされたらたまったものではない。
「……わかったわよ!」
観念して――でもそれを認めるのは嫌で、冥はその場を離れようと踵を返す。
すると、狼が冥を追ってくる音と気配が感じられた。
「おい、言ってるそばから離れるなよ!」

だが、すぐに後ろで足音が止まり、重い布がばさりと揺れる音がする。
「検事さん」
おそらく、捜査官が振り向いたのだろう。
「狼家の名に賭けて、アネさんはアレバストの法廷まで無事に送り届ける。安心してくれ。」
強い誓いの言葉が、背後から聞こえた。

――そんなことを約束しなくても、私は自分で検事席まで歩いて行けるわ。
憤然と心の中でそう言い返しながら、冥はさらに歩を進める。

「ああ……どうか彼女を、よろしく頼む」
決して明るくはないが静かで優しい声が耳に響き、冥は床を睨みつけながらその場を立ち去った。
 
***
 
……そんな事情があって、冥は今とあるホテルに篭もっている。
日本での現場捜査は大方終了しており
ここ数日で逮捕された組織のメンバーへの事情聴取は狼が担っているので、冥の出番は今のところない。
その結果、安全と疲労回復のためにと、冥は数日前まで狼が使っていた部屋に否応なく押し込められていた。

……正確に言うと、出ようと思えば狼にその旨を伝えて護衛をつけてもらえば外出も可能だが
半分は意地のために、部屋からは一歩も出ていない。
あとは御剣が担当する日本での裁判が終了し、被告をアレバストで起訴するための準備が終了すれば、冥は日本を離れる予定だ。
その日までの我慢……と部屋から出なくてもできる類の仕事を持ち込み、ひたすらそれを処理することで
彼女にとっては長い引き篭もりの時間を、どうにかやり過ごしているのである。

広くはない部屋に何日も閉じこもっていることは、精神衛生上宜しくないということを身をもって実感している。
だが、そこそこ良い調度品なども置かれているため、気軽に鞭を振り回して発散するわけにもいかない。
そのため冥は鬱憤を仕事への情熱に昇華させることで、精神の安定を保っていた。
 
 
「よう、アネさん。晩メシの時間だぜ!」
若干乱暴なノック音が、廊下に続くドアから響いてくる。
仕事の手を止めて時計を見遣ると、いつの間にか19時を回っていた。

覗き窓から声の主を確認すると、冥は鞭を持たない手でロックを外し、数歩下がる。
来客が誰であっても念のため警戒することは、狼と申し合わせて決めたことだった。
「ご希望通り、野菜のたっぷり入ったサンドイッチだ」
姿を現した狼は、小洒落た紙袋を掲げてズカズカと部屋に入ってくる。

「ありがとう、でもまだお腹が空いてないの。」
外に出ず大した運動もしていないので、昼食で摂取したエネルギーはまだ残っているようだった。

「冷蔵庫にでも入れておいてもらえるかしら」
それが可能なようにと、食事は温かくなくても食べられる軽食を頼むようにしている。
「だったら、俺は先に食わせてもらうとするか」
肉のたっぷり入ったサンドイッチの包みを2つ取り出すと、狼は紙袋を冷蔵庫の中に仕舞った。

一切れを豪快に口へと放り込みながら、狼は入室時にテーブルの上に置いたいくつかの封筒を拾い上げ、冥に差し出す。
「これが部下からの報告書、こっちが今日聴取した構成員の調書だ」
「御苦労さま」

「で、これが今日までの大使館の事件に関する日本側の捜査資料だ。」
検察局のロゴが印刷された封筒を開けると、分厚い資料が入っている。
かすかに懐かしい匂いがしたことで、それを託した人物が誰なのかを冥は瞬時に理解した。

「必要なものがあれば手配すると、検事さんが言ってたぜ」
取り出すと、一番上に薄いコピー用紙で送り状のようなものが添えられていた。
差出人の名前は、御剣怜侍。

それは公式文書の書式でワープロ打ちされており、
要約すると資料を送るのでよろしく、ということと、話がしたいので連絡がほしいという内容が綴られていた。

冥の携帯には、1日に1度、御剣からの着信履歴が残っている。
だが、冥は電話に出ることも掛け直すこともしてこなかった。

一度だけ留守電に入っていた、メイを気遣う言葉と連絡を待つというメッセージが頭の中で響き
それを振り払うように、冥はぐしゃりと音を立ててそれを握りつぶす。

「ちょっと待て!いきなり握りつぶすなよ!」
最後のサンドイッチを口に入れようとしてた狼が、冥の所作に気付いて咎めるような声を上げる。
「大丈夫よ。これは資料ではないから必要ないわ。」

拾い上げて紙を広げた男は、それに目を通すと再び口を開いた。
「連絡を請うと書いてあるぜ」
「用件はおそらくただの私用よ。連絡の必要はないわ」

「私用とは書いていないし、重要な話かもしれないぜ?……ほら」
狼がくしゃくしゃになった紙を差し出すが、冥は手をかざしてそれを固辞した。
「もしそうならば、そうであると書いてあるはずよ。そうとは読めないのが私用であるという暗示よ。」

狼は紙を引っ込めると、狼はベッドに座り込み、椅子に座った冥と向かい合うようにして腕を組んだ。
「昔からの知り合いで、この事件に関しちゃ成り行きとはいえ一応部下だろう?
  今日も心配してるようだったし……私用であっても話をするくらい、罰は当たらねえと思うけどな」

心底心配している時の御剣の顔が、脳裏に浮かぶ。
冥は眉間に力を入れてそれをかき消してから、資料に目を移した。
「あの男と接触しない方が、私は好都合なの。」

「フーン、少なくともあっちはそんな風に思っちゃいねえみたいだけどな?」
事情を良く知らない人間に本当のところを話す気にもなれず、
冥は表向きの、しかし決して嘘ではない理由を紡ぎ出す。
「あの男といると……私は本領を発揮できないのよ」

「肩に力でも入ってるんじゃねえか?」
「そうね。姉弟子として、あの男にみっともない所を見られるわけにはいかないもの」
冥がそう答えると、冥が捨てた紙をヒラヒラと指で揺らしていた狼が
面白いものでも見つけたかのように、冥の顔を覗き込む。
「フーン……」

「つまりどうしても、あの検事さんにカッコ悪い所を見られたくねえってことか」
その表情は、まるで冥の心の中の何かを掴み取ったかのように、楽しげに勝ち誇っていた。
「現場で鞭を振り回す様子を見てても思ったが……まるで、素直になれねえガキの初恋みてえだな」

咄嗟に鞭を唸らせると、手練の捜査官はいつも通りあっさりと横に飛んでそれをかわす。
肩すかしを食らい、思うような手応えを得られなかった左腕の感覚に、冥は余計に苛立ちを募らせて大声をあげた。
「違うわ!私があの男よりできるということを、本人に見せつける必要があるのよ!」

だが狼の反応は、その言葉を受けて数秒止まって不思議そうに考え込むだけだった。
「うーん……検事さんの前でだけ、肩に力が入るんなら……」
 
「やっぱりそれは、検事さんにカッコイイとこだけ見て欲しいってことじゃねえか」
今度は何かを揶揄するような表情ではなく、さも当たり前のことのように、狼が指摘をする。
「俺には、アネさんが検事さんを特別に意識してます、って言ってるようにしか聞こえねえぜ」

隠してきたつもりの感情をあっさり言い当てられたことに、冥は動揺する。
世界中でさまざまな人間と会ってきた男だからなのか、それとも周囲にはたやすく見えているのか……?
そんな不安が頭の中を駆け巡り、冥は平常心を失って再び声を荒げる。
「い……異議あり!それは拡大解釈というものだわ!」

とにかく理屈で煙に巻こうとするが、やはり相手は上手のようだった。
「俺は法廷の人間じゃねえ。感じたままに喋ってるだけだぜ」
相手をこちらの土俵に引きずりこむことが叶わず、冥は己の不利を感じ取る。

「第一、キモチの問題ってのは、理屈じゃ説明できねえもんだろ?」
「気持ちの話なんて、はじめからしてないわよ」
そう返すと、狼は先程引っ込めた皺だらけの紙を再び冥の前に差し出した。
「……だったら、これ握りつぶすなよ。私情だろ?」
御剣の連絡を請う手紙は、あくまでも公式文書の書式をとられているので
確かに、握りつぶすのは不適切な振る舞いと言われても仕方がない。

それ以上何も言えずに冥が黙っていると、狼が御剣からの文書を更に前に差し出す。
「事情はよくわからねえが、長い付き合いなんだろ?仲直りして損はないと思うぜ?」

冥は、首を振って再びそれを受け取らなかった。
「しても、仕方ないのよ」
「検事さんの方は、どうにか繋がろうとしてるみたいだが?」
「あの男が、理解できていないだけよ」

追い打ちをかけるように、狼が冥に問いかける。
「アネさんの方から手を伸ばして、それでも駄目だったのか?」
決して、そうではない。差し出された手を払いのけることしかして来なかったのだから。

冥が黙秘を決め込むと、狼はそれを“否定できない”という意味に捉えたようだった。
「だったら、まだ諦めるのは早いと思うんだがな」

今度は抵抗する間もなく、例の紙を握らされる。
慌てて押し返そうとした時には
狼は既に、冥の目の前から廊下の方へとその大きな体を移動させていた。

「ま、経験豊富なお兄さんの老婆心ってヤツだ。気に障ったなら聞き流してくれ」
冥の返事を待つまでもなく、狼は部屋を出ていく。

ドアが閉まり、オートロックの作動する音を聞きながら
冥は自分が握りつぶした白い紙を、しばらくじっと眺めていた。

 

<おわり>