「Daybreak」

 

午前2時――
この時間でも現場では捜査員と捜索隊たちが、それぞれ与えられた任務のために走り回っている。

一時的に任務を解かれた御剣怜侍は、彼らを横目に吊り橋を渡り
古風な屋敷に向かって歩いた。

目的の建物の前では、年若い警官がうつらうつらしながら警備にあたっている。
御剣が労いの言葉をかけると、彼は仰天したように目を見開いてしっかりと敬礼する。
しばらくは、目を覚ましていてくれそうだった。

彼の横を素通りし、奥の院と呼ばれる建物の扉を開けると
冷たい檻の前で、並んだ脚立に座り込み作業をしている二つの影と赤い「錠」が目に入る。

被疑者に開錠してもらえば、どれだけ多く見積もっても30分以内には開いたはずの「からくり錠」。

それなのに、御剣が失態を犯したことで1つだった錠の数が、何者かによって5つに増やされた。
施錠者以外がこの鍵を開けようとすると、1つにつき何十倍、下手をすると何百倍もの時間のかかる「錠」――

地震によって激しく動揺した御剣に代わり
全て開けるまでに24時間は必要と言われたそれを総当たりの手法で解除しているのは
御剣の姉妹弟子にあたる狩魔冥と、この寺院の住職である女性だった。

「――狩魔検事。住職どの。」
二人に声をかけて、振り向くのを待つ。
先に振り向いたのは、住職の方だった。

「あら、赤い王子様じゃないの」
御剣が声を掛けてから10秒もせぬうちに振り向いた尼僧は、妙な呼び名と共に御剣を歓迎した。

「……こんな時間に、何をしに来たの。御剣怜侍」
被疑者を留置所に連れ帰る時に顔を合わせたきりのメイが、少し疲れた声と共に振り向いた。
その音に、咎めるような色が含まれているのは、気のせいではないようだ。

「手が空いたので、来てみたのだが……邪魔だっただろうか」
そう言いながら、保温バッグからまだ温かい缶紅茶を出し、二人に手渡す。
糖分補給のためのチョコレートを冷たい手に乗せてやると、メイは小さく礼を言ってそれを口に放り込んだ。

「そういう問題ではなくて、あなたには自分の仕事があるのではないの?」
心配されてのことだと感じて、御剣の思いが少し和らぐ。
昼間の地震と失態で、彼は無意識のうちにナーバスになっているようだった。

「今夜与えられた仕事は済ませた。担当検事からも、しばらく好きにしていいと言われている。」
御剣は現在、海外研修中の身分である。
所轄内で以前のような権限を正式に持っているわけでもなかったので
担当検事からの要請がない限り、局内のバランスを考えると無理矢理首を突っ込むわけにもいかない状況にあった。

「ゴドー……とか言ったかしらね。
  あの男、成歩堂龍一を敵視していたし、あなたが親友だということも知っていたから……」
被疑者の護送などは任せられるが、事件の核心に触れるような部分には首を突っ込ませたくない。
どうやら、そういう意図が含まれていると考えて良さそうだった。

「資料を読めば、私が弁護席に立っていたことは自ずとわかる。……当然の計らいだ。」
やれやれ、と肩を竦めると、湯気の向こうでメイが気遣うような笑みを浮かべたように見えた。

「そういうわけで……あやめさんの護送の時間まで、私は暇だ」
「だったら、さっさと帰って、ちゃんとベッドで休みなさい。」
先程と同じように、メイが突き放すような声を発した。

「いや、夜明け頃までここに居させてもらう」
御剣が踏みとどまるように言い返すと、メイは呆れたように溜息をついた。
「……立ち直るのが、あなたの最優先の仕事だと言ったはずよ」

10年以上の付き合いのせいか、メイには御剣が落ち込んでいることを隠せない。
姉ぶった口調に諭されるが、御剣はやはりそこから退こうとはしなかった。
「ならば、私は尚更……ここにいる必要がある」

「……バカを言わないで」
「キミをここに残して、一人でのうのうと眠れるわけがなかろう」
暖房や防寒具を手配されているとはいえ、
極寒の中御剣の代わりに、メイは難解な錠と格闘している。

細かい作業に不向きだからだろうか、いつもの革手袋を脱いだ指先が
氷点下まで冷え切っているであろう錠に絡んでいた。
この光景が脳裏に焼き付いてしまったこともあり……もし彼女の言うとおりにしたとしても
心配や自責の念によって頭が冴えるのは、目に見えている。

しばらく静かな睨み合いが続いたが、メイの方が先に目を逸らした。
「……だったら、勝手になさい」
負けず嫌いの彼女が比較的あっさりと退いたのは、御剣の心情を慮ってのことだろう。

了承の言葉を受け取ると、御剣は住職の方を向く。
若い二人のやり取りを、微笑ましそうに眺めていた彼女に、御剣は声をかけた。
「住職どの、しばらく私が彼女を手伝う。
腰の具合もある。しばらく休んで来られるといい。」

「けど、こんな時にオバサンだけ、のんびりしているわけには……」
「大丈夫よ、ジューショクさま。私はまだ、頭も手も動いている。」
メイが、戸惑う住職に向かって優しく笑いかけた。

「それよりも、もっと時間が経った時にこそ、ジューショクさまの助けがきっと必要になるわ。
だから、しばらく休んで身体を温めて……その時に備えて欲しいの」

実質24時間以上、メイはまともに休養をとっていないはずだ。
全く表情には表れていないが、たとえ若くて体力がある上“完璧”を信条とする彼女でも、
さすがに今の状況では強気ばかりではいられないようである。
眠気で朦朧した場合のサポートと、万一の場合の代役を両方こなすことができるのは、
住職以外には存在しない。

心配しつつもメイの願いに納得した様子で、住職は本堂の方に戻って行った。
部屋を出ていく寸前、彼女が残った二人を見て意味ありげに笑ったように感じたのは、
御剣の気のせいだということにする。
 
 
「状況は、どうだ」
畳に放り出された2つの錠を見遣りつつそう尋ねると、冷たい声が淡々と現状を知らせる。
「今は3つ目に着手している。慣れてきたから、少しペースが上がってきているわ。」
「……そうか」

黙って檻に近付き、残った錠に手を掛ける。
すると、メイが御剣を制した。
「あなたの指先は、この作業には向いていない。」

「……ム、そうなのか」
素直に、指を引っ込める。
「もともと女性の指で扱うことしか考えていない作りだし……一つ一つの操作が、精細だもの。」
ごつごつとして、しかも不器用な御剣の指では、却って邪魔になるようだ。

失態を犯すわ、その対処で役に立たないわ……ますます自己嫌悪に陥りそうになる。
すぐにマイナス思考に走ってしまう状態の御剣に、メイが事務的なトーンで声を掛けてきた。

「あなたにできることは、3つある」
振り向くと、手にした紙の束を見ながら考え込むポーズをしていたメイが、視線を上げて御剣の顔を見る。
「ひとつは、私が眠らないように見張っていること。
  それと、……そんな隅っこじゃなくて、こっちに来なさい。」

「……邪魔に、ならないか」
自虐に陥っている御剣を、メイが気付いていないかのように見過ごして言葉を続ける。。
「それよりも寒いのよ。近付いて体温を貸しなさい。それが2つ目よ」

近付くと、冥が御剣に紙の束と筆記用具を差し出した。
「ジューショクさまに、マニュアルのコピーを借りているわ。
  解除手順の1つ目から順に試していっているから、
  私に見せながら順に赤でチェックをつけていって」

閉じられた紙の束は、全量の3分の1ほどのところで捲られており、
すでに1つ分のチェックが別の色で書きこまれている。
それに倣えば何とかなりそうだった。

署から借りてきた毛布をメイと自分の肩にかけ、互いが触れるか触れないかの距離で寄り添う。
「……ありがと」
メイが、手を掛けた錠を見つめながらぽつりと礼を言った。

******

微妙な距離に、はじめは気恥ずかしそうにしていた二人だったが、
作業が進むにつれ、そんなことを考える心の隙は消えていく。

メイが想定していた時間よりも1時間ほど早く、3つ目の錠が鎖から抜け落ちた。
時刻は、もうすぐ6時といったところである。

「これで……あと2つ」

真剣な顔で格闘していたメイが、自然に綻んだ。
目元は疲れ切っているのに、眼光だけは衰えない。

「……手伝ってくれて、助かったわ。」
長い付き合いのせいか、言葉を使わずとも少しの所作だけで意思疎通が叶い
それが時間短縮に大きく貢献したのは確かなことだった。

だが、感謝を伝えるべきはこちらの方だ――御剣はそう思う。

真夜中に届いた要請に応え、すぐに飛行機に飛び乗って駆けつけてくれた。
詳しい事情も知らされぬままに全力で共闘してくれただけではなく、
地震で冷静さを欠いた御剣に、いつもの自分を取り戻す機会を与えてくれた。
しかも今は、この極寒の中、一睡もせずに御剣の失態のフォローに回ってくれている。

どれだけ感謝しても、感謝し切れない。

「礼を言うのは、私の方だ。」
素直に気持ちを伝えて、御剣は続けて言葉を投げかける。
「キミが来日したのは、法廷に立つためだったはずなのに……」

すまない、と言おうとした御剣を、メイが笑って制した。
「私は、自分の意志に基づいて動いているだけよ」

残った二つの“錠”をまっすぐ見遣って、メイが呟く。
「これも……大切なシゴトだわ」

その姿を見て、御剣は去年の再会のことを思い出す。
「検事とは、何のために存在するのか」……その問いかけにメイは自分の言葉を使って
答えることができない様子だった。

だが今、彼女は御剣に“答え”を示した――
御剣の目には、決意を宿した今の彼女の横顔はそんな風に映っている。

しばらくその姿に見蕩れていると、こちらを向いたメイと目が合う。
ぼんやりとした御剣の様子を思ってか、怪訝と心配の混ざった表情を見せていた。
慌てて視線を逸らし、足元の紙袋から小さなカイロを取り出す。

「……そろそろ、住職と交代する時間だ。
  彼女が到着するまで、少し休んで指を温めておくといい。」
しばらく無言のまま、袋を開けて温める。
じんわりと温度を感じるようになってから、彼女の手を取ってそれを握らせる。
手の先が、氷のように冷たかった。

さらにその上から、手袋を外したばかりの御剣の手で包み込み
温めるように息を吐きかける――

子供の頃、庭での雪遊びの途中で手先の感覚がなくなってくると
互いに寄り添い、そうして手を温めた光景が、ぼんやりと頭に浮かんだ。

メイもそれを思い出したのか、包まれた手を眺めながら微笑む。
その表情は、昔の彼女のようにあどけなくも、成長した分大人びても見える。
ただはっきり言えるのは、とても綺麗だった……ということ。

視界に入ってきたその光景は、それまで兄らしい態度を貫いてきた御剣の自制を
光が影を払うかのように、一瞬で消し飛ばす。
 

何をされているのか、しばらくの間よくわからなかった。
ただ、包まれていた手が突然握られ、顔の皮膚に冷たいものが触れる感覚だけが、意識に焼きつけられる。

触れた何かが徐々に熱を帯びていき、温かさと柔らかさを認識した時
冥は、自分に起こったことを理解した。

御剣の唇が、冥の唇に触れている。

何十秒か何分か……体感的にはかなりの長時間触れていたそれは、
冥の脳内がさまざまな思いで満ち溢れた頃にようやく離される。
呼吸するということを思い出すまで、そこから更に時間がかかった。

「ふ……不謹慎よ」
「全くだ。」
うろたえつつも、冥が抗議を口にすると御剣は静かに笑った。

「だが、目が醒めただろう?」
まるで余裕たっぷりといった様子で、御剣が軽口を叩く。

「……解除が全て終わるまで、眠くなりそうにはないわね」
そう減らず口を叩くのが、年若い娘にはやっとのことだった。

じっと冥に視線を注いでいた御剣が、しばらくしてからゆっくりと立ち上がる。
「……そろそろ、行ってくる。」
何事もなかったかのような落ち着いた足取りで、彼は部屋の外の方へと歩いていく。

扉が開く音の後、冥は御剣の呟く声を聞いた。
「……ありがとう、メイ」
ほどなくして引き戸が閉まり、足音も消えていく。

「礼を言われる筋合いなんて……」
握られた拳の、人差し指の基節がそっと、御剣と接した柔らかい部分に触れる。
一瞬だけ、泣きそうな形に冥の眉根が寄せられた。

だが、次の瞬間には、鋭い視線で次の錠を見据える。
拭き去るように手の甲で唇を擦ると、冥は手にした錠を改めて見据え、作業に戻って行く。
その表情には、何の迷いもなかった。

 
メイのそうした仕草のことなど知る由もなく
御剣は外に出たところで、しばらくぼんやりと立ち尽くしていた。

手袋を嵌めた手のひらが、己の口元を包み込むように抑えている。
その表情は、突発的に自制の壁を踏み抜いた自分への驚きだけで構成されていた。

見上げると夜空が白み始め、朝の訪れを知らせている。


2月10日――
決戦の日は、こうして始まりを告げた。

 

<終わり>