「ある殺人者の娘」

 

その日の裁判が進むにつれ、背中が冷たくなっていくのを感じた。

私がその事件を担当したのは、着任したてで比較的手が空いていたことと
依頼を受けた弁護士の名前を見て、その男への“復讐”を望み強く願い出たためで
それ以上の意味はない、ただの仕事のはずだった。

それなのに、審議が進むにつれて、事件の背景は私の知っている別の事件と重なりを帯びてくる。

肉親を亡くしたという被告人の背景、事件にまつわる人間関係、実行犯と計画者の存在。
巧妙なトリックによる、濡れ衣。
そして、恐らく存在する……計画者から被告人への、隠された怨恨。

私の“弟”が被告人として勾留され、
私の実父が真犯人として逮捕された殺人事件と、面白いほど図式が似通っていく。

“狩魔”の名を冠していることで辛うじて平静を保ち、
検事という立場の上で踏みとどまることができた。
背中を這う寒気よりも、己の矜持と勝敗、そして“復讐”に意識を集中させる程度には。

それでも、何故かどうしても気になるのを抑えられず
あの被告人の少女の様子を、休廷中にそれとなく見に行ったりもした。
何もかも違うはずなのに、似たような身の上で、優しい目の光とお人好し加減だけはあの男とそっくりな
その少女のことが……どうしても気になって、同時にひどく気に障ったのを覚えている。
 
 
結局その日、私は法廷に立ってから初めての敗北を喫した。

しばらく荒れてから、表面上立ち直った振りをして新しい被疑者の逮捕へ向かうと
その事件の黒幕は、悠然と緑茶を啜ってその時を待っていた。

警察車両に引き渡されるまでの道程で、私は彼女に小さく尋ねる。
「……どうして、同族を陥れるようなことを」

取り繕ったとしても、私の青さはこの女には丸見えなのだろう。
見透かすような笑みを浮かべて、綾里キミ子は静かに言った。
「それは……ご自分の胸に訊いてみるとよろしいでしょう。」

その言葉に、再び私の背中に寒いものが走り抜ける。
「どういう、意味」
やっとの思いでそう尋ねると、綾里キミ子はにっこりと笑って私に告げた。

「ああたからは、アタクシと同じニオイがする……そういうことですわ。」

姦計を操る時の父に似た、底知れぬ冷たい視線が私を射抜く。
自分の一番弱いところを、ぐさりと抉られたような気がした。

――己の才能の欠如によって、有るべきものを奪われた、怒りと憎しみ。

立ち尽くす私を嘲るように冷笑を投げかけると、綾里キミ子は踵を返し、警察車両へと自ら歩いて行く。

「違う……私は……」
去っていく背中を見つめて私は凍りつくしかなかった。
同じ理由によってどれほど相手を憎んでいるとしても、
私があの男を陥れることができるとは思いたくない。

だから、どれだけ痛いところを突かれたとしても、私にはやっぱり理解できなかった――
綾里キミ子の“答え”は、私の求めたものとは違うようだ……そう判断する。

そもそもその問いを投げかけたかった本当の相手は……別の人間に対してだったのだから、仕方のないことだ。

調書にしっかりと記載されているはずの父の動機――人を陥れ、殺してしまうほどの、心の動き。
私は未だにどうしても、それを意味のある文字として認識することができない。

******

2019年 2月8日 午前1時過ぎ
アメリカ 某所――

その晩、狩魔 冥は重要な案件を終わらせ、久々に自宅で眠りについていた。

明日はオフィスで報告書をゆっくり書けばいいと、ほっとした思いで夢の世界を堪能する。
しかし敢無く、その安眠は電話のベルによって遮られることになった。

これが私用の回線だけであれば、彼女も目を閉じたまま無視したのだろうが、
私用の携帯を何コールも鳴らした後、相手は数分おいて仕事用の携帯の方にかけてきたのだ。
緊急事態だと認識して、今度は可能な限りすぐに電話を取る。

「こっちは夜中よ、レイジ……」
表示された番号から電話の主がわかっていたので、半分寝惚けた声で抗議する。
「ム……やはり、寝ていたのか」
電話の向こうでは、騒がしい車の往来と風の音がした。

「久しぶりに、ぐっすり眠れるはずだったのよ」
不機嫌を言葉でぶつけると、御剣が申し訳なさそうに謝った。
「すまない……。どうしても、今すぐ頼みたいことがあったのだ」
「今すぐ?」

記憶が正しければ、御剣の滞在国との時差は……確か4時間。
彼としても早朝のはずの今、一体何を頼まれるというのか……
ある程度の覚悟を決めた冥の耳に入ってきたのは、思った以上に無理難題だった。
「明日の10時までに、日本に飛んでほしい」

「……いきなり、何を言っているの?」

明日って、何月何日のこと?
10時というのはどこの時間で?
もしかして24時間制で朝の10時のことではないわよね?
そもそも、一体何をしろと言うの?

矢継早にそう問いかけると、御剣が順を追って説明を始めた。

日本で、優秀な検事を必要とする重要な裁判が行われる。
開廷は現地時間で2月9日の午前10時からだが、御剣はどうしても検事席に立つことができない。
ここは是非、冥に頼みたい……任られる人間は狩魔冥しかありえない――そういうことらしい。

冥を妹弟子扱いしているはずの御剣にしては、やけに下から相手を持ち上げているように感じる。
その態度に、どことなく不安なものが漂っていた。

しかしながら、計算すると開廷まで24時間を切っていたので、念のため、冥は荷物を鞄に詰め込み始めた。
礼節を重んじる御剣が、夜中とわかっていながら
しかも食い下がるような形で冥に電話をかけてくることなど、今まで一度もなかったのだから。

「餌を撒く時はもっと上手にすることね、御剣怜侍。
  どれだけ持ち上げられても、あなたの代理であることに変わりないのだと聞こえるわよ」
そう返しながら、パスポートと貴重品をポーチに詰めて、鞄の中に押しこむ。
「ム……私の代理というわけでもないのだが」
「どちらにしろ、あなたにそこまで謙ってモノを言われると、厄介だということを察することはできるわ」

冥がそう切り返すと、御剣が唇を閉じて唸る音が聞こえた。
「ならば……もっと魅力的な材料が必要だというのであれば、こう言えばいいだろうか」
電話の向こうで、御剣が呼吸を整えるのが伝わった。

「この事件は、成歩堂にとって特別なイミを持つ」

懐かしい名を聞いて、冥の手が不意に止まる。
「成歩堂……龍一」
それは、冥が打ち倒したいと切望する男の名前だった。
打ち倒したいもう一人の男、御剣怜侍と同格である弁護士の名を出されて、冥の心が動く。

彼が「特別」に関係しているということは、彼が弁護席に立つということを意味するだろう……
冥がそう考えていると、御剣が新たに言葉を紡いでいく。
「キミが望むであろう舞台を、必ず用意すると約束しよう」
その言葉が、冥の考えを確かなものにした。

「仕方ないけれど……あなたに貸しを作ってあげることにするわ」
勿体ぶって受諾の返事をすると、御剣がほっとしたように息をついたのが聞こえた。
「それは、ありがたい。」

最後に、それではまた現地で、と言い残して御剣は電話を切った。
ただ 、 電話を鞄の中に放り投げてから、冥はあることに気づいて首をかしげる。

――現地で?

そう言えば、あの往来の音は静かな朝5時のものではなく……
昼間の国の、大都会を想起させた。
時差的に考えて、たとえばクルマ大国とか言われていた……日本の都会のような。
つまり、御剣は日本から電話をかけてきた可能性が高いということになる。

――日本にいるのに、レイジが検事席に立てない?
    同じ理念を共有した信頼できる相手が、弁護席に立つというのに?

何かキナ臭いものを感じながらも、冥は準備の手を休めることはしない。

何故ならば、望むべき勝負も、出会えるはずの懐かしい顔も
有休をとって逢いに行くだけの価値があることを、冥は良く知っていたからである。

******

2月9日 午後・某時刻――

御剣怜侍との茶番のような真剣勝負を終えて、捜査のために事件現場へとやってきた。

顔色をビリジアンで統一させた成歩堂龍一と一緒に現場を廻るうちに
事件の背景となった人間模様が映し出される。

「この事件‥‥すべては、綾里家の物語を舞台にした事件だったのね」
「‥‥そうみたい、だね」

極寒の中、不気味に光る錠に手を掛けながら、冥はまっすぐに目の前の暗闇を見据える。
そうしながら、自分の知る限りの「物語」に思いを馳せた。

愛情ではなく“力”を求めた夫に裏切られた、綾里キミ子――
彼女を鬼神へと変えていった要素の一つとしてあげられた、ある事件は
多くの人間にとって無関係ではなく、部外者であるはずの冥にとっても、重要な意味を持っていた。

“DL6号事件”――
偶然起こった地震による、エレベーター事故を発端とする殺人事件。

それは、ある親子の人生を大きく狂わせ、
連鎖的に多くの人生を狂わせ、さらに複数の人命を奪った。
そして、その事件の犯人こそ、冥の父親なのだ。

父に殺された御剣信の息子は、今もなお、過去の記憶に苦しんでいる。

犯人特定に失敗した霊媒師は事実上、住む土地を追われ
娘に対して母の名乗りをすることもできぬままに、一昨日殺されている。
その娘たちは……一人は母の汚名を広めた人間の罪を暴く途上で殺され、
もう一人の娘は今、冥の目の前の檻の向こうで……極寒の洞窟に閉じ込められていた。

連鎖で不幸となった霊媒師の姉は、死刑を宣告された今も、塀の中から罪を重ねている。
その女の一人目の娘は死刑となって――死霊となった今も良からぬ企てに加勢しており
二人目の娘は、殺人事件の被疑者として拘留され……現在、冥の監視下にあった。

それらの多くは、DL6号事件さえ起きていなければ
きっと起こり得なかった、悲劇の連鎖とも言えるだろう。

父の犯した業の深さに、冥はひとり、戦慄する。
そして、その娘としてその男の多くを受け継いだ自分は……・。

ふと、父が殺した御剣信の息子が脳裏に浮かんだ。

浮かぶのは、何も知らずに長い時を共に過ごした少年の姿ではなく
発作によって失態を犯した、先程の、蒼い顔。
地震の後の狼狽した様子と失態の大きさは、心の傷の深さを垣間見せていた。
冥の父親が彼につけたそれは、きっと……一生消えないのだろう。

改めて、冥は別の御剣怜侍の表情を思い浮かべてみる。
いつもの、不遜で堂々とした天才検事の顔は、憎らしいほど簡単に思い出せる。

今日の法廷では、勝ち逃げこそされたが
彼と冥がぶつかり合うことで真相に近づいたことは確かだった。

その結果、冥は彼の口から、これまでにない賛辞を得た。
『最高のパートナー』だと。

冗談めかして放たれたその言葉を耳にして
冥は壮絶な悔しさと同時に、ようやく隣に並ぶことができたと誇らしい気分をも感じていた。

だが、自分と彼が隣に並ぶことなどあり得ないのだと、今更ながらに思い知る。
二人の間には、どうしても埋まらない隔たりが存在するのだと。

父親を殺した男の娘が、御剣の隣で同じものを見ることなど……許されるわけがない。

“憎しみ”と“復讐”、“多忙”、そして御剣からの“厚意”――
そういったもので目を逸らし続けていた事実に改めて直面し、
冥の心の中を、黒い闇のようなものがざわざわと這い回る。

冷たく閉ざされた檻に手を当て、冥はゆっくりと首を横に振った。

――それでも私は、絶望に囚われるわけにはいかない。

何故か落ち込んでいる成歩堂を叱咤し、監視中の被疑者に頼んで
解錠のレクチャーを再開してもらう。
先程抱いた決心をいったん頭の隅に置いて、その作業に没頭し始めた。

起きてしまったことは、どんなに足掻いても、覆すことができない。
だとすれば、負の連鎖を生みだした男の娘にできることは、
これ以上悲劇を広げないために、手を尽くすことだけだった。

――父が絡む事件だけではなく、この先出遭う事件全てに、そのつもりで立ち向かう。

これから狩魔 冥の人生は、そのために捧げられていくことになるのだろう。
たとえそれが、独りきりの道になるのだとしても。

 

<おわり>