「遠い空で」

 

御剣怜侍は長い間、師とその教えを信じて生きてきた。
師を神のように崇める姿は、傍から見れば依存そのものだったのかもしれない。

同じ世界の中で過ごしてきたメイは、時に子どもらしい表情を見せることもあったが
強く大人びていて……しっかりと前を見据えているように見えた。

だがそう見えていたのは、恐らく同じものに囚われているために
見えていないものがあったからなのかもしれない。

実際には、弱くて脆い部分もたくさんあったはずなのだ。
華宮霧緒が慕う人間に依存することで強く立ち回れていたのと同じで
メイも、父への崇拝という支えがあったからこそ、
大人の世界で渡り合うために必要な姿を保つことができていたのだろう。

しかし、彼女の父は罪を暴く立場でありながら、殺人者として断罪され、
彼女は大好きな父親と拠るべき神を奪われた。

すでに母は他界しており、残った肉親である姉とは……仲が悪いわけではないが
家庭を持っているところを気軽に頼れるほど、親密でもないようだった。
その姉よりも兄弟同然に育った御剣とは、父の罪と御剣自身の失踪によって繋がりを絶たれた。
そして、御剣の知る限り、彼女には、他に頼る人間がいない。

自身を護るものも拠り所もほぼ全てなくした状態で、彼女はひとりぼっちになった。

そんな彼女が、まるで手負いの獣のように全てを睨みつけ牙を剥いているような態度をとったり
妙に意固地な子供のような様子を見せたりしていたのは……
突然護られた世界から追い出され、独りで生きていかねばならなくなった不安の表れだったのだろう。
どんなに大人びたように見せていても、彼女はまだ子供なのだから。

そして同時に獄中の父と、御剣の痕跡を求めて日本に来たことも……
父の教えに固執したのも、成歩堂を通じて御剣を打ち負かすことに拘ったことも、おかしいことではない。
それしか、彼女には道標が残されていなかったのだから。

彼女はこうして、父への依存を支えに……
そして、それをほとんど自覚せぬまま、彼女は今日まで足掻いてきたのだろう。
その証拠に、“依存”を指摘すると、メイは初めてそのことを知ったような表情を見せた。

 
「あ‥‥!」
御剣が投げかけた言葉に、メイが、小さく呟く。
彼女の表情が、“依存”を自覚したことを示していた。

――今なら、伝わるかもしれない。
そう感じて、改めて彼女の方に向き直った。

「‥‥キミは今日、私に追いついたのだ。」

罪無き人間のために、怪我を圧して走り回り、彼女は法廷のドアを開けた。
それを目にした瞬間……彼女が自分と同じ場所に辿り着いたことを、御剣は理解した。

たとえ完全に解放されていないのだとしても……
勝利よりも……名誉よりも大事なものが、法廷には存在するのだと
父の教え以外にも、正義や真実が存在するのだと……彼女はもう、知っている。

「われわれは今、ここに並んで立っている。」
「‥‥!」

「‥‥しかし。私は立ち止まるつもりはない。
  ‥‥キミが歩くのをやめると言うのならば‥‥ここでお別れだな。狩魔 冥。」

そう告げると、メイの顔が凍りつき……その表情のまま御剣を睨みつける。
“睨まれたら睨み返せ”……そう身体に叩き込まれた同門の二人は、しばらく睨み合った。

神を……拠るべきものを失う辛さ、信じていたものが信じられなくなる衝撃は、御剣自身も知っている。
御剣にとっても、それは検事としての死を選ぶほどのもので、乗り越えるのに、1年ほど時間を要した。

今、御剣がしていることは、まさにこれから死を選ぼうとするほどの状態にある彼女に、
自分が1年かけて向き合ってきたものを、今すぐ越えて見せろと無茶を言っているようなものだ。

御剣にとって、このやりとりはある種の賭けのようなものだった。
例えば、歩きたくないと道端に座り込んだ駄々っ子を、置いていく振りをするような類の、である。

子供の頃のメイは、御剣がそうやって突き放すと、しばらくは動かないが……必ず追いかけてきた。
メイがついてきたことに心から安堵しつつ、
頬を膨らませ前を見据えて歩く彼女の手をとって、また一緒に歩いていったものだ。

だから、彼女は意地でもついてくるはずだ。
もちろん、彼女にとって御剣が、今でも“置いていかれたくない”と感じるだけの存在であるならば、だが。

もし、今は立ち止まることを選んでも、彼女はいつかまた、この道に戻ってくる。
今までの姿や昨日引き継いだ法廷の資料の内容、そして鞭を取り戻した時の表情から、確信して良いと思われた。

メイは、根っからの検事だ。
彼女が切望したような……一見華々しく映るようなものではなくても
熱意と才覚に恵まれた検事なのだと、御剣は信じて疑わない。

もし彼女がここで御剣との別離を選べば……痛手を負うのは自分の方かもしれないということも、わかっている。
だが……ここまでぶつかり合ったのだから、もう悔いはなかった。

だんだんと表情が崩れ、ぽろぽろと涙を流し始めた彼女が、これからどんな選択をしようとも。

******

『もう、歩けないわ』

小さな冥は、そう言って道端に座り込んだ。
その前には、少年だった御剣怜侍が困った顔で冥を見下ろしている。

少年の用事に無理やりついてきて、疲れたと駄々をこねる。
御剣から立つように促されると、レイジの足が大きいのが悪いだのと、
口から、可愛げのない言葉が次々と溢れてきた。

『ならば‥‥キミは先に家に帰って、ゆっくりしているといい。』

しばらくするとそう言って、少年は進行方向に向かって、踵を返した。

この小さな足では、大人に近い彼の大きい足には同じ歩調でついていけない。
――私は、一緒に歩いていたいのに。
自分に力が足りないことが、悔しくて仕方がなかった。
泣くまいと歯を食いしばっても、ぽろぽろと涙が零れてくる。

ぼやけた視界の中、前方の少年を見る。
彼は、何事もなかったかのように前に向かって歩いており、
冥が横にいなくても平然としているその様子が、冥の気に障った。

ただ……その右手は、振られることなく後方に差し出されている。
そのことに冥が気付くまで、そんなに時間はかからなかった。
右手が何度か握ったり開いたりして、それから指先だけが揃えて曲げられる。

――おいで。

その合図を察して、冥は立ち上がり、走り出す。

がむしゃらに少年の右手を掴むと、少年はその手を握り
もう片方の手で冥の頭をくしゃくしゃに撫でた。

「妹」を愛しそうに見つめる少年の視線が照れくさくて、冥は下を向いて悪態をつく。
すると少年が笑って、減らず口を返した。
そうして二人は、手を繋いでゆっくり、目的地へと歩いていく。

******

突然、昔のことを思い出した。
幼い頃何度も経験した、駄々っ子の記憶。

レイジは覚えているだろうか。そして……わかっているのだろうか。

場所や、起こった出来事は全然違うけれど……

冥が歩けなくなっていることも、泣いている理由も、
御剣が突き放したようでいて、そっと手を差し伸べていることも。
あの頃とそんなに変わらないのだと、知っているのだろうか。

冥は、差し出されている見えない手を、掴みたい衝動に駆られている。
……けれど、そうしてはいけないと思った。

――それでは、駄目。同じになってしまうもの。

少年を追いかける日々が、また延々と繰り返されるだけ。
冥はそこから抜け出したくて、日本に来たはずだ。

それに、そうやって御剣怜侍を追い続けるということは
結局は彼の道を辿り、自分の道を歩いていないということにならないだろうか……?

それは父の教えを辿ろうとしていたのとさほど変わりのないことで
指摘された“依存”の対象が、御剣怜侍に摩り替わるだけの話になのでは……?

結局、同じことの繰り返しだ。

――それでは、何も、変わらない。

受けた光を映すことで輝くのではなく、自ら輝けるようになりたい。
……父や御剣、そして、この1年自分を揺さぶり続けた、あの弁護士のように。
そして、たとえそれが、どんなに小さな光でも……。

彼女が苦悩から自由になるためには、これは恐らく不可欠なことなのだ。
彼らの影に怯える自分から、解放されるには。

――だから、レイジの手をとっては駄目。

本当は、怖い。
差し出された手に、縋りついてしまいたい。

――けれど……私は、自分で歩く。

涙が、止まらない。
それでも意思を伝えようと、冥は深呼吸をした。

「わ、私は‥‥私は狩魔 冥よ。」

声が震える。
独りで立つことが、こんなに勇気の要ることだとは知らなかった。

「‥‥いつまでも、私の前を歩いていられると思わないで。」

******

「勝負は‥‥これから。‥‥覚悟しておきなさい!」

涙混じりだが、はっきりとした言葉と視線が、御剣に突きつけられる。

さっきまで漂っていた悲愴な空気が消し飛ばされ
何らかの決意に満ちた光が、その瞳に宿っている。

彼女は自分の意志で踏みとどまり、歩くことを決めた。
強気な宣戦布告も、御剣の耳には心地よく響く。

メイは、御剣と今まで通りの関わりを続ける意思があるのだとも言っているのだ。
いかにも彼女らしい口上も相まって、御剣は思わず顔が緩む。

「……何よ」
しばらくして、メイが不機嫌そうに眉を寄せて問う。
「楽しみだと、思ったのだ」
笑顔のままそう答えると、ぷいとそっぽを向かれてしまう。

「相変わらず、余裕なことね」
御剣は、その言葉に皮肉交じりの笑顔だけで応じた。

……実のところは、余裕があるわけでもない。
といっても、勝負の話ではなく……。

彼女の成長と立ち直りが想像以上に早い、という点で。

追いかけてくる意思さえ見出したら、支えるつもりだった。
昔のように、手を繋いで並んで歩けばいいとも思っていた。

だが、実際には……覚束ないながらも彼女は自分の力で立っている。
支えなどもう必要ないのだと感じるだけの強さが、すでにそこにはあった。

――できればもうしばらく、手を繋いでいたかったのだが。

彼女が成長したことを知る度に……手が離れていくことを実感する度に
幾度も味わってきた感傷を、ここで感じることになるとは思っていなかった。

御剣はそのことに少々驚き、戸惑っている。
だが、少し考えてみると、それはそれほど不思議なことでもないことに思い至った。

御剣が真実を知り、独りになって自分と向き合ったこの一年、
同じように真実を知ったメイも、独りでさまざまなものを見てきたのだろう。
そして御剣を根底から揺さぶったあの男に、彼女もまた揺さぶられてきたに違いない。

正面から向き合うことはできなくても、多くのことを思い悩み、考えて……
最後の数日に御剣が与えたいくつかの刺激、そして命を脅かされるような体験によって
彼女は自分と向き合い、答えを得たのだ。
あくまでも想像でしかないが、そう考えるのが一番自然に思えた。

検事としてだけではなく、人間としての強さの面でも、
恐らく、 メイは御剣の隣に来ているのだろう。

「……よく、がんばったな」
息をするように自然な思いでそう呟くと、涙目のまま、メイが笑った。
「大したことでは……ないわ」
減らず口は、変わらぬままだ。

だが、御剣が包み込むように身体を抱き寄せると、
静まりかけていた涙腺が再び決壊する。
もう一度労いの言葉をかけると、メイは声を押し殺し、肩を震わせた。

プライドの高い彼女は、人のいる場所では滅多に泣かない。

その彼女が衆人環視の場で泣いているということは、
それに構っていられないほどの思いをしているということ。
……そもそも自分が泣かせた張本人であるということは、とりあえず、置いておいて……。

その思いを、自分の腕の中で曝け出してくれている。
御剣は、それを嬉しく感じて、メイの頭を優しく撫でた。

メイからは一切、御剣に身体を預けるようなことはしてこない。
それでも、自分を覆う腕や髪を伝う手を決して拒絶したりはしなかった。

十分信頼されていることを感じて、御剣の心は温かいもので満たされた。

******

日本に来て、良かったのかどうかはわからない。

想起したくないような思いを、度々味わった。
信じられなくなってしまったものも、たくさんある。

成歩堂龍一にも、御剣怜侍にも、結局勝つことはできなかった。

それでも……彼らと衝突した、延べ数日のことは、
これからの冥にとって、きっと大きな意味を持つのだろう。
それは予感ではなく、確信だった。

放送に促され、急ぎ足でゲートを潜る。

後ろを振り返ると、見送りの男が笑顔でそれに応えた。

恥ずかしいところを見せてしまったことを思い出し、気まずい思いにも駆られるが
できるだけ同じような表情を返し、また前を見て歩き出す。

まずは怪我を治して、改めて自分の在り方を考え直して……。
恐らく、捜査や法廷に対するスタンスも変えていかなければならないだろう。

これからするべきことが、山のようにあった。
決して義務などではなく、全てが希望に満ちているようにすら感じる。

“狩魔豪の娘”であることに囚われて法廷に立つことは、もうないはずだ。
――私がパパの娘であることには、変わりないけれど。

エスカレーターに乗る前に、もう一度だけ振り向くと、男はまだそこで冥を見送っていた。

――その余裕の笑顔に、いつか吠え面を掻かせてあげる。

心の中で、冥は改めてそう誓う。

決してその笑顔が嫌いなわけではない。
けれど、余裕のない顔で「さすがだ」と言わせてみたい。

きっとその時、狩魔冥は御剣怜侍と同じ場所に立てたと、心から感じるのだろう。

――だから……しっかりと見ていなさい、御剣怜侍。
    どんなに遠くにいても……ちゃんと、私のことを。

 

<おわり>