「Pluto」

 

西の空に、若い月が浮かんでいた。
太陽の光を受け静かに夜を照らすものを窓越しに眺め、冥は物思いに耽る。

ああいうものに、なるつもりだった。……いや、ならねばならなかった。。

自ら輝くだけの力を持って生まれてこなかった身で、父のように輝くことを求められるのであれば
その光をできるだけ多く受けて、輝いているふりをするしかないではないか……。

父が冥を自分の元に置かなかったのも、御剣を冥から離して日本に呼び寄せたのも
冥が二人とは違って“まがいもの”であることを、周囲に覚らせぬようにとの配慮だったのかもしれない。
太陽の下では、月は白い影を浮かべるだけで……輝くことなどできないのだから。

自分は……冥(くら)い世界で、遠き光を映すことしかできない。
そんなことは、わかっていた。

だが、それでも……天賦の才などなくても、
積み重ねてきた努力だけで、あの男を超えることができれば……もしかしたら……。
そう思い、全てを賭けて日本を訪れた。

最終的に完敗を喫した冥は……多くのものを失い、逃げるように闇へと還っていく。
今度は、夜を照らす月ですらなく……自らと同じ名を持つ、冥い星のように。

冥が7つの時に惑星から外されたその天体は……
今でも、光の届かぬ場所を静かに廻っている。

******

3月23日 午後9時41分
国際エアライン 12番搭乗口付近

少し先を、見知った背中がゲートに向かって歩いているのが見えた。
ようやく目的の人物を見つけて、御剣は安堵の息を吐く。

そのまま呼び止めようと息を吸い込むが、
それを声に変える過程で、御剣の中に躊躇が生まれた。

“このまま引き留めずに行かせてやる方が、彼女にとっては幸せなのではないだろうか?”

辛いことばかりを想起させるこの地を離れれば、法廷を去って多くの柵(しがらみ)を断ち切れば
彼女は、穏やかに生きていけるのではないだろうか。

自分が何かをしなくても……時間や他の誰かが、彼女を癒すのではないだろうか。
むしろ、その方がいいのでは……?

そう思うと、これ以上彼女に近付くことが躊躇われた。

だが、今彼女が去るのを許せば、恐らく彼女と御剣の人生は、もう交わることはないだろう。
彼女の性分が、絶対に再会を許さないはずだ。

――それは、困る。

心からの正直な思いだった。

彼女が幸せならば、自分は関わりを失くしても構わない……そう感じたこともあったはずなのに、
実際にそこへ繋がる未来を選択肢に入れようとすると、御剣の心はそれだけは認めるまい、と動く。

エゴだということは、わかっている。
だが、彼女が幸せであるかどうかは、彼女自身にしか判断できない。

それならば……引き戻す道に、光を示す。

そう思い直し、御剣は改めて深呼吸をした。

「‥‥どこへ行く? メイ‥‥」

**

よく知っている、若く落ち着いた声がする。

「‥‥!」
驚いて振り向くと、声の主が早足で歩み寄ってくる姿が見えた。
「ど、どうしてここが‥‥」

手が届くかどうかの距離まで近付くと、男は立ち止まる。
「‥‥コイツだ。」

発信機を仕込んだ他人のコートを、荷物の中に入れてしまったらしい。
退院した時に持っていた荷物はそのままトランクに突っ込んでしまったので
たぶん、その時に紛れ込んだのだろう。

人知れず日本を離れようとしていたにもかかわらず
見つけてくれと言わんばかりの痕跡を残してしまったことに
少なからず自己嫌悪を感じるが……表には出さずに、冥は会話を続けた。

発信機を取り付けたコートに関連して、先程終わった事件のことを話す。
世間話か仕事の話に近い内容で続けられたその話題を
冥が何気なく打ち切ると、話が途切れ……しばらくの沈黙が訪れた。

「‥‥これから、どうするつもりだ?」
唐突に、御剣が口を開いた。

「‥‥あなたには関係ないわ。」
問われたくないことを問われ、それ以上踏み入られないようにと睨みつけると
男の表情が険しいものへと変化した。
「‥‥逃げるのか?」

その言葉が、唐突に……冥が眠らせようとしていた何かを呼び覚ました。

「うるさいッ!」
叫びのような声が、身体から湧き上がった。
その鋭さに……そして、そんな力が残っていたことに、冥は内心で驚いた。
できるだけ冷静を取り繕って、目の前のに改めて言葉をぶつける。

「あなたなんかにわかるはずがないわね‥‥。
  ”狩魔 豪の娘”という立場がいったい、どんなものか!」
「‥‥メイ‥‥」

まわりから期待され、応えつづけなければならない。
勝訴して当たり前。
負けなんて、考えられない。

彼女の父は、確かに天才だった。
でも、娘である自分は、そうではない。

そんなことは知っていた。

それでも……。

「私は‥‥天才でなければならなかったのよ‥‥」

**

自分より7つも若いのに、同じ水準の仕事ができる。
まだ成人にも達していないのに、何年ものキャリアをすでに積み上げている。

今の自分と同じ年齢になった時、彼女はどれほどの域に達しているのだろう。
その姿を楽しみにしながら、御剣怜侍は狩魔冥を見守り続けてきた。

だから、彼女が影で何かに苦悩してきたことも、本当はずっと前から知っている。
同時に、苦悩していること自体を誰かに知られるのを恐れていることも。

だから御剣は、これまでそれを探ることも踏み込むことも、極力してこなかった。
つまり……冥の本音を直接聞くのは、これが初めてのことになる。

彼女は狩魔豪の後継者であり続けるために、多くのものを一人で抱え、隠してきた。

長い間たったひとりで耐えてきた、周囲と自身からの重圧……
心情を吐露することで、彼女はようやくそれを降ろそうとしている。

だが、重荷からただ解放されるだけでは、狩魔冥は“死んで”しまうかもしれない……。
彼女はいつも通りまっすぐ立って、堂々と御剣を冷やかに睨みつけているというのに、
その危険を感じさせるだけの自棄と絶望が、その影に見え隠れしていた。

偉大な父親を映す虚像としてではなく、彼女自身としての実体をもって存在していることを
ちゃんと伝えておかなければ、このまま彼女が消えてしまうような気がした。

「‥‥‥‥‥‥‥」
だから、同じ道を進む者として彼女を留めておきたいのならば……ここは敢えて、踏み込むべきだ。

「たしかに‥‥キミは天才ではないかもしれない。」
義務感と共に切望し続けたものを婉曲に否定すると
俯いたメイの口元が、悔しそうに歪んだのが見えた。

「しかし‥‥
  キミは、検事だ。これまでも‥‥これからも。」

「‥‥!」
メイの身体がぴくりと動き、その目がゆっくりと御剣を見上げた。

驚きと疑念を感じさせる視線が、御剣の意図を探るように突き刺さる。
だが、ほどなくして目から光が消え、彼女がぽつりとつぶやいた。

「私には‥‥もう、ムリよ。」

その声はあまりにも穏やかで空虚だった。
御剣の言葉だけでは、希望を与えることができても……確信させることができないのだろうか。
それとも、希望があってもそこを目指すだけの力を、すでに失ってしまったというのか。

「だって‥‥もうムチも捨ててしまったわ。」
それよりも、立ち上がるための支えを失っているのだと……言葉が示す。

「そういえば‥‥成歩堂からコイツをあずかっている。」

こうなることを……彼女が再び立ち上がるためには、これが必要だということを
友人は、見通していたのだろうか……。
不思議な思いを抱きつつ、御剣は冥に、預かっていた鞭を手渡す。

「‥‥‥‥‥‥」
支えとなる分身が返ってきたからか……メイの目に幾許かの力が戻ったように見えた。

「もう一度、言う。われわれは、検事としての名誉のために戦うのではない。
そのムチが、何を打つべきか‥‥よく、考えてみるんだな。」
そう告げると、彼女は再び俯いて、黙り込んだ。
今度は、表情もわからない。

「‥‥‥‥‥あなたは、いつもそうだった‥‥」
しばらくして冥が顔を上げた時、そこには、本心を隠す時の……冷たい笑顔が浮かんでいた。

「いつも‥‥私を置いて、先へ歩いて行ってしまう。」
それは意外な言葉だった。
御剣はいつも、彼女をとても近くに感じていたから。
そして、失踪の件を除いて、彼女を置いて行った覚えなどなかったのに……。

だが、実際に彼女はそう感じてきたのだと、その表情が物語っている。
そして……・。

「‥‥御剣 怜侍‥‥あなたが憎かったわ。」
そう言わせるだけの屈託があったのだと、実感せざるをえなかった。

御剣は彼女の言葉を、黙って受け止める。

「でも、ついに‥‥あなたに復讐するチャンスがめぐってきた。
  あの男に勝てば‥‥成歩堂 龍一を打ち負かせば‥‥
  私を置いていったあなたを超えることができる!」

熱っぽく、冥が一気に思いを語る。
どれほどの思いでそれを成し遂げようとしていたのか
これまでの彼女の言動からも、いくらか察することができた。

一呼吸置いてから、冥の声のトーンが下がる。
「‥‥それが、私の”復讐”だったの‥‥」

はじめて、“復讐”の……真の意味を知った。

御剣にとって、それは“復讐”と呼ぶには邪さがなく、むしろまっすぐな思いすら感じるものだった。
だが、メイにとっては、その言葉を必要とするほどの切迫したものだったのだろう。

7つの年の差、そして人格や視点の違い……
御剣にとっては気にも留めていなかった、優劣とは別次元の相違が
彼女にとっては、優劣を前提とした差として映っていたのだろう。
いつも御剣の傍にいたはずの彼女が、“いつも置いて行かれる”と感じるほどに……。

そしてそれは、四面楚歌同然のの日本に飛び込んでくるくらい、
彼女の中で大きな問題として捉えられていた、ということか。

―― 私は、彼女のことを……一番大事なところを知らなかったのだ。
そう感じて、御剣の口から嘆息が洩れた。

「‥‥そうだったのか‥‥。」

***

幼い頃からあれだけ敵意をむき出しにし続けて来たというのに、
御剣が、初めて納得したように溜息をつく。

――やっぱり、私の一人相撲だったのだ。
メイは、力なく微笑んだ。

その気持ちのまま、鞭を渡された時の忠言に、答えを返す。
「‥‥私にはムリよ‥‥
  今までの自分を‥‥捨ててしまうなんて。」

父の教えと精神を……完璧に受け継ごうと努力してきた、今までの自分……
それを捨て去ろうとした時、“狩魔冥”が全て消えてしまうことに気がついた。

拠り所とする恒星を失った星など……潰えたも同じこと。
それを痛感したからこそ、冥はここを去ろうとしていた。

だが、男は取り澄ました笑みを浮かべて、それを否定する。
「‥‥できるさ。」
その瞬間、冥は自分の身体から力が抜けていくように感じた。

御剣怜侍にはやはり、冥の気持ちなどわからない。
父と同じように、自ら輝くことのできる“天才”には……。

「あの華宮 霧緒のように、な。」
「‥‥カミヤ キリオ‥‥?」

メイの心なき契約に、吸い寄せられるように嵌った、弱い女の名が挙げられる。
……どうして、ここで彼女のことが出てくるのだろう?

「キミは、彼女と取り引きして、利用したつもりだろう。
  しかしキミだって、父親に‥‥狩魔 豪に、依存していただけではないか。」
法廷で矛盾を突きつける弁護士のような態度で、目の前の男が言う。

――“依存”、ですって?
意味がわからず考えこんで……ほどなく、一つのフレーズが脳裏を掠める。

――“拠り所とする恒星を失った星など……潰えたも同じこと”
先ほど心の中で呟いた自分の言葉に、冥は“依存”を見出した。

同時に、冥と同じ名を持つ星のことを思い出す。

自ら輝くことはできず、恒星から遥か離れた場所を巡り、
しまいには惑星からも外されてしまったもの。

光を持たぬその星に自らを重ねて、密かに思い悩んだこともあった。
   
けれど、光がなくても……人から「惑星」のレッテルを奪われても……その星は、生きている。
華宮霧緒も、“依存”から抜け出したのだと……目の前の男が示している。
彼女の心も何らかの形で救われたのだと、男の優しげな表情から推察できた。

そして、冥にも同じことができるのだと、彼は告げている。
今までの自分を捨ててしまえる……つまり、“依存”から解放されることはできるのだと。

威光に照らされることばかりに気を取られて
そんなことはまだ一度も、考えようとしたことすらなかった。

――パパの存在がなくても、私は……“私”でいられるの?

   私のままで、いてもいいの?

希望を求めて男を見ると、彼は静かに冥の目を見つめていた。
その目は、幼い頃の冥が知っている……優しくて厳しい少年のそれを、彷彿とさせた。


<おわり>