「よるの ひかり」

 

病室には、メイの名が記された札が取り付けられていた。
そして……コピー用紙にマジックで「面会謝絶」と書き殴られたものが、ドアに貼り付けてある。
その筆跡に見覚えがあり……御剣はそこに滲み出た幼さに、思わず笑みを漏らした。

この「面会謝絶」はメイの独断で、まだ病院の同意を得ていないもののようだ。
それならば守る気はない……と言わんばかりに、御剣はドアをノックしてノブに手をかけた。

しかし、鍵がかかっていないのに……ドアが、開かない。
ノブは回るのに、押しても引いてもドアは開かなかった。

押せば開くはずの扉には、向こう側から力を加えられているような手応えがある。

「開けてくれないか、メイ。」
返事は、なかった。

扉にかかった負荷は、男の力で本気を出せば簡単に開きそうなものだった。
だが向こう側の力が何によってもたらされているかを想像すると、強硬手段に出ることが不可能になる。

恐らく、扉を押さえているのはメイの身体だろう。
もしそれを無理やり押しのけたら……今朝手術を終えたばかりの彼女にどんな影響があるのか想像がつかなかった。
“人質”をとられて、御剣はひたすら困り果てる。

彼女まで、あと数センチメートル。
その間にそびえ立つのは、そこそこ頑丈につくられた……金属製の扉。
ようやくここまできたのに、どうしても、手が届かない。

だが、この状況をすぐどうにかする方法も、説得するだけの時間も、今の彼にはなかった。
本当は早く警察署に戻って、友人と突き合わせた情報をもとに新たな指示を出さねばならないのだ。

それでも……できれば少し、彼女の様子を見て行きたかったのだが……。
メイの無事は先ほど確認した。今はそれで満足するしかない。

「……また後で来る。」
扉越しにそれだけ伝えて、御剣はその場を去った。

その気配を感じて、冥はようやく力を抜いて、その場に座り込む。
今は、誰とも顔を合わせたくなかった。

想定外だった見舞客の言葉から察するに、
彼女が証人として立てていた華宮霧緒は、恐らく殺人容疑で告発されているのだろう。

告発したはずの人間が、霧緒を案じて冥を詰った。
そこには非常に、滑稽な矛盾が存在する。

それでも、真剣に怒っていた男の言い分は
冥のなけなしの良心を揺さぶった。

――私は、自分の使命のためなら、何だってする。
    それで誰が不幸になろうが、私には関係ない。

だが、それでも……彼女がやってもいないはずの罪に陥れられることなど、
冥は望んだりしていなかった。

霧緒のこれからを案じて冥を責めた成歩堂龍一の、燃えるような怒りの目。
それを傍で眺めていた御剣怜侍の、冷ややかで鋭い視線。

温度は違うのに、冥の中に生じた迷いを入り口として、彼らの目の光が冥の心の中を侵食していく……。

今朝、裁判所の前で御剣怜侍と口論をした。

睨みつけた相手の向こうに、鈍く光る金属と人影を見つけたのはほんの偶然だった。
それは遠くにあったので、持主の顔や容姿はよくわからない。
だが、自分が確実に狙われている……そんな殺気のようなものだけは、何故かはっきりと感じた。
気圧されているうちに、放たれた光が、自分の体に吸い込まれる。
身体が、あの衝撃と熱を忘れられない。

大多数ではないが、それでも多くの人間にとっての大きな分岐点に、彼女は関与してきた。
完全無敗を守るため、見方によっては「汚い」と言われるような行いもした。
無罪かもしれないと薄々感じた被告人を、有罪に捻じ込んだこともある。
……恨まれていないわけがない。
自分が撃たれた理由をまだ知らない冥は、右肩に手を当てて身体を震わせる。

傷が痛む度、自分が立っているのは、命を賭けるべき場所なのだと思い知らされる。
無論、そのことを知らなかったわけではない。
だが、それをしっかり受け止めてこなかったのは、事実だった。

13歳で検事になってから、少なくとも片手だけでは数えられない数の人間を、死刑台へ送った。
時にそういう仕事でもあるということを、研修時代、指導者から何度も教えられていたし
実際に、職務として死刑に立ち会ったこともある。

初めて立ち会った日は、憧れていた仕事の“現実”を目の当たりにして……恐怖すら覚えた。
同時に事件にかかわった人間の命に、そして人生に対する重い責任があるのだと思い知る。

それでも、何度もそういうことが繰り返されるうちに……それらは日常の一部となり
いつの間にか彼女の感覚も麻痺していった。

――これは私には無関係な、“ゲーム”なのだ……と。

そう思えば、他人の人生を背負う重い仕事も、ただの他人事になる。
父の教えのとおり、ただ勝利のために力を注ぎこめば良いのだと思うことができた。

“私は、逃げない。御剣怜侍のような醜態は晒さない。”

この1年間、それだけが、検事として御剣に勝てていると自負できる部分だと思っていた。
けれど……それよりも前から逃げていたのは……・。
冥にはその答えを受け入れることができず、頭を振ってその想念を頭から追い出した。

振動で右肩が痛み、また己の業を思い出す。
ふと周りを見渡すと夜の暗闇が広がっていた。

全てが自分を脅かすもののように感じる。
たとえ自業自得なのだとしても、それを背負えるだけの支えは、今の彼女にはなかった。

こわい。
誰か、助けて――

今朝の一件があったからだろうか。
その時脳裏に浮かんだのは、偉大な父ではなく、裏切り者の顔だった。

なす術もなく、ベッドの上で天井をただぼんやり眺めていると
複数の足音と話声が聞こえてきた。
「ありがとうございます。安全を確認次第、退出しますので。」
足音は、冥の部屋の前で止まる。
年配らしき声の女性……恐らく看護師に、若い声の男が礼を言った。
知っている声に、冥は動揺する。

――御剣、怜侍?
面会時間などとうに終わっているのに……何故?

ドアが開き、部屋に蛍光灯の明かりが差し込む。
顔を合わせたくはなかったので、メイはとっさに目を閉じて表情を消した。

昨日からその男と接触する度に、自分の何かが少しずつ剥がれ落ちていく。
もうこれ以上、暴かないでほしい。
切にそう願っていた。
 

もうすぐ日付が変わる。
捜査の合間を縫って、御剣はメイのいる病院を訪れた。

友人の話から、メイを撃ったのは今回の事件の実行犯だと推測された。
彼女はすでに2人目の被害者として御剣のファイルに記載されている。

当直の看護師は、時間外の面会人に戸惑いながらも
その患者の置かれた状況は理解しているらしく、担当の検事を被害者の病室まで通してくれた。
彼女はあの後、ずっと茫然としていて、夕食にも手をつけなかったそうだ。
今日のところは、そっとしておくことにしているのだと説明を受ける。
暗に、患者を刺激するなと言われているのだろうと、御剣は解釈した。

礼を言って、独り、部屋の中へ入っていく。
中は暗かったが、外灯がほのかに部屋を照らしている。
その明かりを頼りに、部屋の中を進んだ。

「メイ」
眠っているのか、返事はない。
だが、ベッドの側で彼女の顔を見ると……目は閉じているが、どこか力が入っているようだった。
「……眠っているのか?」
頬に触ると皮膚から緊張が伝わった。
どことなく、震えているようにも感じる。

確信するしかない。
メイは目覚めていて、傍らに誰がいるのか理解しているのだと。

歓迎されてるようでもなかったが、
今までのようにあからさまに拒絶されているわけでもないと感じた。
いや、拒絶するだけのエネルギーすら残っていないだけなのかもしれないが……。

淡い光が射すだけの暗闇の中で、御剣はメイを眺めて少しばかり物思いに耽る。

実父が亡くなって、御剣の世界は闇に閉ざされた。
なかなか人を信じられない状況の中、師を通じて幼いメイと出会った。

常に勝気で、我侭で。何かにつけて自分と張り合って、減らず口を叩く。
多少歪んだ表現でも、御剣に真っ直ぐぶつかってくる。
意地を張っていても、ふとした仕草に親愛の情を隠し切れない。
接していくうちに……彼女は絶対に自分を脅かさない。そう信じることができた。
その信頼は、御剣が人生を進んでいくための大きな支えの一つだった。

成歩堂が、1年前に御剣の“闇”を打ち払ってくれたのだとしたら、
メイは、10年余りの間、闇の中で御剣に光を与え続けた。
そういう風に捉えて、御剣は彼女に感謝の念を抱いている。

だから、彼女が苦しんでいる今こそ、御剣は彼女のためにできることをしたい。
届くにしろ届かないにしろ、御剣はメイにその思いを伝えたかった。

「メイ」
頬に手を触れたまま、耳元に近付いて声をかける。
「心配したぞ」
ぴくりと、頬が動いた気がした。

「今日だけじゃない。ずっと……キミの平穏と幸せを祈ってきた」
一瞬だけ眉が不機嫌そうに動いたのを見ると、むしろ微笑ましい感情が湧きあがる。
ちゃんと聞こえていて、反応をくれることが嬉しかった。
「だから、そうじゃないと知って、キミのいる場所に……ここに戻ってきた。」

今度は、反応がなかった。
……とりあえず、昨日のように傷つけたり怒らせたわけではなさそうなので、よしとする。

「しばらく私は……時間の許す限りキミに付き纏う。覚悟しておくといい。」
堂々とストーカー宣言をしている自分をいささか滑稽に思いつつ、御剣は席を立った。
「……また明日の朝にでも顔を出す」

そう言ってベッドに背を向けると、軽く後ろにひっぱられる感覚がした。
着たままだったコートの裾が、何かに引っかかっているようだ。
もしくは……もしかして、掴まれている……のだろうか。

「……メイ?」

確認のために肩から上だけ後ろを見遣る。
すると、振り向きざまに強い力で引っ張られ、御剣はベッドにしりもちをついた。
ほぼ同時に、寝ていたはずの少女の体が、振り向いた姿勢の青年の胸にするりと飛び込む。
どうやら御剣を引いた力を利用して、身体を起こしたらしい。
この状況は明らかに彼女の意志で作られたようだが
肝心の本人は、御剣のコートで顔を隠したまま一言も声を出さない。

突然の意外な行動や、ふんわりと漂う懐かしい匂いや感触に、青年は戸惑う。
特に五感が感じたものを振り払うように、慌てて声をあげた。

「な、なにを無茶な……」

嗜めるつもりだったが、それ以上の言葉は出てこなかった。
コート越しに触れ合った部分を通じて、メイの体が強張り、震えているのが伝わってきたからだ。
弱みを見せることをよしとしない彼女の、不器用で精一杯のシグナル。
絶対に、見逃すわけにはいかなかった。

御剣は、傷に障らぬように注意を払いながら少女を抱き寄せ、その体を包み込む。

恐らく多くのものに苛まれてきたであろう心身に必要な温もりを与えていくと
5分もたたないうちにメイの身体が弛緩し、震えが消えていった。

覗き込んでみると、御剣がよく知っている表情でメイは寝息を立てている。
御剣は安堵の笑みを浮かべて、ゆっくりとメイの身体をベッドに戻した。

 

翌朝、宣言通りに訪れた御剣を迎えたメイは、
ぶっきらぼうではあったが、会話を拒絶することはなかった。

二人の間にできた溝が、少しずつ……埋まっていく。


<おわり>