「Surrender」

 

3月22日 午前7時45分
地方裁判所 正面玄関――

 

まだ肌寒い早春の日差しの中、まだ人気のない玄関の外で、人を待つ。
目的の人物が法廷に立つのは10時からだが、
綿密な準備をするため、彼女が相当早い時間に裁判所へ訪れることは
局内では有名な話だった。

ここへ行くことを告げると当然のようについてきた男が、待ちながら世間話を繰り広げる。
適当に相槌を打ちながら、御剣はぼんやりと物思いにふけっていた。

しかしこの男も……自分の解雇を通告した女に会いに行く、と言われたのに
二人のことが心配だから……とついてきた、びっくりするほどのお人好しだ。
そういうところが、御剣と……おそらく彼女も同様に、信頼を置いた理由なのだとは思うが。

それだけに、この男が弁護士や御剣の“利益”になる行動をしたことで、
彼女はあそこまで怒ったに違いない。
だとしたら……この男の今後についても、できる限りのことをせねばならないだろう。

そんなことを考えていると、刑事が小さく驚きの声をあげる。
白いコートに水色のストールを巻いて、ヒールを鳴らしながら歩いてくる女性を見つけた。
いつもの仕事用の姿ではない――恐らく中に着込んでいるのだろう――が、
それが目的の人物だということは、顔を見ただけでわかる。

一瞬、目が合ったような気がした。
だが次の瞬間には存在すら留めなかったと言わんばかりに視線を外し、
彼女は玄関を通り過ぎようとする。
それを阻止するべく、御剣は比較的大きな声で、他人行儀に声をかけた。
「おはよう、狩魔検事。」
「あら、おはよう負け犬さん」
今気がついた、と言わんばかりに、涼しい声で挨拶を返す。

しかし次の瞬間、彼女の顔には憎しみのような微笑が広がっていた。
「かつての姉弟子の応援に、わざわざきてくれたのかしら?
  クビにした刑事をわざわざ連れて……暇なことね」
刑事の進退については、今のところ御剣が話を止めている状態だが……御剣は敢えてそれは口にしなかった。

嫌味だけを言ってそのまま通り過ぎようとする彼女に、御剣は続けざまに声をかける。
「メイ」
彼女は、はたと歩みを止めた。
「疲れているように見える。……ちゃんと、寝食はとっているか」
前置きの世間話として、昨日の再会からずっと気になっていたことを、率直にぶつけてみる。

「もちろんよ。健康には細心の注意を払っているもの。」
刺々しい笑顔で、少女は振り返った。
「1年も逃げ出していた誰かさんとは強さが違うのよ。
  私は逃げない。己の戦場から」

怨念と言っても良さそうな声が、御剣に襲い掛かった。
幾許かは、思い当たる節のあることでは、ある。
だが今、いちいち痛みを覚えているほどの時間はないのだ。
「戦場、か……」
攻撃をいなしたのが伝わったのか、少女は不機嫌そうに眉をひそめた。

彼女から感じるのは、全力の拒絶。
仕事上の話だけではなく、きょうだいとしての心配さえも、容赦なく撥ね付ける。
態度にそれが現れていた。

だとしたら、せめて、それでも……裁判が始まる前に、彼女に投げかけておきたい言葉がある。
昨日、旧友に投げかけたものと、同じ意味を持つ言葉を。

「それでは、君は何のために戦っている?何から逃げていないと言うのだ?」

みるみるうちに、彼女の眉間に皺が寄せられた。
「……うるさいッ!」
まだ仕事の時間ではないからか。
鞭は使わず、言葉だけで、彼女はその場の空気を切り裂いた。
そして、続けざまに彼女は叫ぶ。
「気に入らないのよ!あなたは昔から!」

その声は、しばらく続くかと思われた。
ヒステリックに怒りをぶつけられることは嬉しいことではないが、
今は、無視されるよりはマシだと思うので、御剣は黙って聞くつもりだった。
「そうやって上から、私を……」

……だが。
怒りをぶつけ終わらないうちに、メイは急速に言葉を止め、驚いたような表情で御剣から視線を外した。
その目は大きく見開いた状態で、御剣の後方を見詰めている。
たった数秒間の出来事だった。

――後ろに、何かあるのか?
御剣は、後ろを向こうと身体を動かす。
しかしそれより早く、その場に破裂音が響いた。
そしてこの音を、御剣はよく知っている。

――銃声!

御剣は咄嗟に周囲を見渡すが、すでにそれらしき光も影もない。
改めて、先ほどまで自分に怒りを顕わにしていた相手を見た。
先ほどの様子だと、彼女はその前兆を知っている。

「メイ!」
右腕をかばうような姿勢で、メイが地面に崩れ落ちるのが見える。
一瞬、御剣の意識が現実から遠ざかった。

“裁判所”での“銃声”。そして……“目の前で” “家族が” “撃たれる”。

彼のトラウマ反応を引き起こしかねない一部のキーワードが、頭に浮かぶ。
実際、心身が凍りつくような感覚が御剣を捕らえようとした。
しかし寸でのところでその思いを振り払い、目の前で起こる事態に意識を戻す。

「メイ!大丈夫か?!」
数歩駆け寄って、再び声をかける。
すると、その声に反応したかのように、メイの身体がすっと起き上がった。
何ともなさそうに、身体が元通りに立ち上がる。

「……問題ないわ。ちょっとびっくりしただけよ。」
そう言って、先ほどと同じように高慢な笑みを浮かべると、
左手だけで器用に乱れたストールをかけなおし、踵を返して……メイは法廷の入口に向かっていく。
その仕草は実に優雅で……御剣は大事なことを見逃しかけた。

ストールがかかる前に数秒間だけのぞいていた、
白いコートの肩口の……恐らく血の、赤色を。

「メイ!……待て!」
慌ててメイの左腕を掴み、後ろを向く。
狙撃犯を探そうと走り回っている懐刀の男に、大きく声をかけた。

「糸鋸刑事!」
「はいッス!」
刑事は即、自分のもとに駆け寄ってくる。
「すぐに車を回してくれ!すぐにだ!」
近所に、どんな面倒な患者でも受け入れてくれる病院があったはずだ。
救急車を呼ぶよりも、そちらに連れて行ったほうが早い。
「了解ッス!」
刑事の走り去る足音だけ確認しながら、抗議の声を上げるメイのストールを奪うように外す。

やはり、見間違いではなかった。
「おびただしい」というわけではないが、それでも日常生活ではなかなか出会えない量の血が滲んでいる。
その中心には金属色の何かが、食い込むように傷口に蓋をしていた。
この状況では、その正体について……銃弾以外に考えられる選択肢がない。

「……離して。」
撃たれてなどいないような、毅然としたの声と態度で、メイが言い放つ。
御剣は、諭すように言葉を返した。
「断る。病院へ行くぞ。」
「大丈夫よ。これくらいの怪我で死にはしないわ。」

一見堂々としているが、腕を掴んでいると、彼女の身体から震えが伝わってくる。
「摘出手術が必要だ」
「パパは、そんなことしなくても大丈夫だったみたいだけれど。」
皮肉そうな笑みを浮かべる顔は、余裕のようでいて、真っ青だ。
「メイ……キミは知っているはずだ。そのままそれを体内に残しておくと……」
「必ずではないけれど、深刻な後遺症が残る……下手をすると死に至る。……そう言いたいのね。」
「その通りだ。わかっているなら、行くぞ」

「嫌よ」
簡単な言葉で、メイは御剣の声を撥ねのけた。
「今日は勝つの。その後どうなろうと、たいした問題じゃないわ。」
本当にどうでも良さそうに、メイが言い放った。
その様子に、御剣は苛立ちを覚えずにはいられない。
「……たとえ死んでも、そう言えるというのか?」

「死んでも?……そうね……むしろそこで終わることが、本望かもしれないわね。」


とにかく、自分は……特にこの男の前では、無様で弱い姿を見せるわけにはいかないのだ。
執念から、痛みに堪え、平静を保つ。

そして……その言葉は、半分は本気だったが、もう半分はあくまでも例え話で、自嘲めいたジョークに過ぎなかった。
呆れて手を離してくれたらいいのに、と思いつきで口から出してみただけの言葉だった。

だが、「本望」というフレーズを出したところ、今までになく強い力で左腕が握られる。
見たこともないような険しい顔で、彼がこちらを見ていた。

「いい加減にしたまえ」

低く、苛立ちと怒りの篭った声。
本気の迫力に、冥の身体は意思に逆らって竦みあがる。
その様子をじっと見ていた御剣が、畳みかけるように言葉を続けた。

「キミが何を望んでいようが……私の知ったことではない」
それは荒げた声ではなかったが、深い怒りと、確固とした決意のみで構成されていた。

実際のところ、強烈な痛みと熱に支配されていた冥には相手の言葉を考える余裕などなかった。
しかし、それでも……はっきりとわかったことがある。
今の声に込められたものこそが、自分が彼を決して越えられない、決定的な差につながるのだと。

逆らえないものを感じて、冥はそれ以上の抵抗を諦めた。

 

メイの口から「死」を許容する言葉が出た瞬間、御剣は世界が闇に閉ざされたような錯覚を覚えた。

法廷。銃と破裂音。血。大事な人。死。別離。……そして、喪失。

1年をかけて鎮めたはずのさまざまな思いが、先程より大きく揺れ動く。
目の前にいる、もしかすると命の危険を抱えているかもしれない人物は、
血のつながりこそないが、彼にとって大事な……残された、最後の家族だった。

――これ以上、奪われてなるものか。

恐怖や絶望の闇よりも、燃えるような怒りと信念が彼を支配していた。

――泣こうが喚こうが、知ったことではない。
    絶対に病院へ連れて行く。

子どもの頃、我侭を振りかざす彼女を、よく叱った。
その時の表情と口調で、病院に連れていくことを伝える。
口に出た時にどんな言葉になっていたかは、覚えていなかった。

すると……一瞬怯えたような目をした後に、メイが心底悔しそうに顔をしかめる。
それから、俯いて……ぽつりと言葉を漏らした。
「……勝手に、なさい」

その口調は、彼女が観念したときのものだった。
それ以上こちらから刺激を与えなければ、口論は終了だ。
御剣は、黙ってメイの体を抱き上げ、乗り付けた警察車両の後部座席に乗り込んだ。


メイは、不機嫌そうに顔を歪めて目を閉じている。
しっかりと作られた表情とは裏腹に、上体を支える事が難しいのだろうか。
メイは傷口をかばうような姿勢のまま御剣にもたれかかっていた。
できるだけの止血は済ませたのだが……やはり身体は相変わらず震え、汗がうっすらと滲んでいる。

御剣は、片手で手でメイの左手を握り、もう片方の腕を正面から回して、メイの体を包み込む。
せめて傍にいて、苦痛となりそうなものをできるだけ取り除いてやりたい。
先ほどの彼女は、まるで痛みを感じていないかのように振舞っていた。
それほどに、弱い部分を見せない……そんな彼女にできそうなことは、それしか思いつかなかった。

「あと10分もかからない。辛いだろうが、もう少しの辛抱だ」
「つらくなんか……ない」
声を掛けると、強がりとしか思えない言葉がメイの口からもれた。
御剣に体を預け、じわじわと汗に濡れながらも、女は不敵に微笑んでいる。
ジャジャ馬もここまで来れば大したものだ、と御剣は感心した。


痛みに全てを奪われそうになりながら、冥は考えていた。

今日、自分は法廷に立てない。

悔しかった。
あの弁護士との対決のうちで……今までで一番、被告が有罪だと確信があったのに。
そして何の咎も感じず、ためらいなく自分の手を握り身体を包むこの男への“復讐”が、
ようやく終わろうとしていたのに……。

そして今、その目的とは真逆に、無様な姿を見せ……その温もりに安堵している。
そんな自分が許せなかった。
この男には、自分の強いところだけを見せていたかったのに……。

彼女には、 無様なままこの舞台を退場する気は、一切なかった。
自分だけでやり遂げるつもりで、ロジックを積み重ねてきたのだ。
海外でキャリアを積み、独特な師に教えを受けてきた彼女が構築した戦術と
そのために集めた証人や証拠品は、他人には扱い辛い。

このまま退場すれば、代理の検事はそのことが原因で、……つまり“自分が原因で”負けることになるかもしれない。
それはそれで、狩魔の名に新たな泥を塗ることにつながる。
引き継ぎにも「カンペキ」さが求められた。

冥は、ゆっくりと身体を起こした。
資料の入った自分の鞄を近くに見つける。
それを目で確認し終えると、心配そうに自分を見遣る男を、睨みつけた。
目つきは悪いが、その中にはバカのようにお人好しの瞳が潜んでいる。
その優しい光が、 心底気に障った。

――私の欲しいものを何でも持っているのに、屈託なく、私から多くを奪っていった男。
本当は、こんな男に渡したくない。

だが、今日急遽動けそうな検事で、これからたった2時間で彼女が託すものを把握して使いこなせるのは……。
彼女と同門で“天才”と誰もが認める目の前の男以外に、当てはまる人間はいないのだ。

そして……昨日のことを思い返すと、どちらにしろ彼が持っていくのは間違いないようだ。
それならば、奪われるよりは自分の意志で渡す方が、納得できる。

一番信頼のおける検事に後を託すことは、この案件を担当した検事の責任でもある。
散々迷ったが、最終的にはそんな私情を切り捨てた考えが、彼女に渋々と口を開かせた。


彼女はしばらく御剣に体を預けていたが、突然弾かれたように顔を上げ、ゆっくりと体を起こす。
それから唐突に、御剣の目が直視された。
何故か、怜悧で攻撃的な視線をためらいなくぶつけてくる。
歯を食いしばり、しばらく何かを言いよどむようにしていたが、あるとき意を決したように、口が開かれた。

「御剣……怜侍……。」
――何か言いたいことがあるらしいが、この期に及んで……また口論になるのでは。
そう思った御剣は、先手を打つことにした。
「無理にしゃべるな」
言葉を止めようと声をかけると、メイの両眼が、より鋭く光る。
その表情は、先ほどの“我侭”とは質の違うものだった。

「いいから……聞きなさい、御剣怜侍。」
それは、凶弾に撃たれ傷を負った若い娘のものではない。
プライドを持って仕事に生きる人間のそれだった。
どうやら、今出せるだけの力を使って、全力で何かを伝えようとしているようだ。

――止めてはならない。
「わかった。聞かせてくれ」
御剣は、敬意を払って耳を傾けることを態度で示した。

すると、メイ……いや、“狩魔検事”が顔を右に動かし、そちらを見よと言わんばかりに御剣を促す。
そこには、鍵のついた白い鞄が置いてあった。
撃たれても決して手から離さなかったため一緒に車に載せられた、彼女の所持品である。

「そこの鞄に、今日必要なものが揃っているわ。ロックのナンバーは…………。」
数字のところだけは、御剣にだけ聞こえるように小さく囁く。
彼女の父に関連すると思われる数桁の数字の羅列は、御剣にもすぐ覚えられた。

言い終えると、メイは御剣の胸に完全に体を預け、目を閉ざす。
唇が、かすかに動き、小さな言葉を発した。

“好きなように、すればいい”

御剣には、そんな風に聞こえた。

――託されたのだ。

一連の言動の真意を察知して、御剣は更に神妙な気持ちで応えた。
「……承知した。」
「本当に、不本意だわ……」

メイはそれだけ言うと首を傾け……そのまま、病院に到着するまで
呼吸以外の行動を放棄しているかのように動かなかった。

 

手術室の赤いランプが点くのを見上げて、御剣は祈るように胸に手を当てる。
もう片方の手には、手術中の彼女から預かった、白いトランクケースが握られていた。

確かに昨日、御剣は彼女に……この事件を譲れと言った。
だが、このような形で譲られるのは……御剣にとっても不本意なことである。

それでも、託されたからには……やりとげたい。

――今はただ祈るしかない。
    これから示す私の軌跡が、いつか……闇で迷う君の、道標となることを。

頭を垂れて、御剣は手術室から足早に離れた。


<おわり>