「カウントダウン」

 

2018年――

年が明けてしばらくすると、検事局に御剣怜侍に関する噂が流れるようになった。

「失踪していた御剣怜侍が突然本庁に現れ、復職を願った」
「現在、それを受理するかどうかの査問が行われている」
「失踪の原因が恐らく“アレ”なだけに、本庁は最終的に彼を受け入れるだろう」

最後のものは噂というよりも、想像に類するものだったが、
多くの検事や職員たちがそれを一般的な意見として受け入れているようで、異論も唱えられていなかった。

第三者にあたる人間からは、御剣怜侍に起こってきたことは、同情的に映るものらしい。

当事者でも完全な第三者でもない冥は、たまに耳へと入ってくるその噂には一切関わらない態度を示し続けた。

3月に入り、噂の内容が「復職はほぼ確実だが、来年度は現場復帰せず、
海外で研修を行うらしい」というものに変わっても
狩魔検事は意に介さず、淡々と自分の仕事に没頭するだけだったという。

最近、御剣の“忠犬”だった糸鋸刑事が内密の任務として本庁に出張に出かけていくことがあった。
周囲の人間は一連の噂を裏付けるかのようだ、と噂する中
糸鋸の現在の“上司”である狩魔検事はやはり、それについても一切コメントしなかった。

 

3月某日 午後6時 本庁・第8研修室

「以上が、ここ2ヶ月の報告ッス。」

馴染みの刑事が、元気よく敬礼する。
久々に会えたことで、よほど嬉しいと感じているのだろう。

「報告、感謝する。」

以前には簡単に出なかった謝礼の言葉をスラリと口にして、御剣は紙コップに入ったコーヒーを一口飲んだ。
ここの自販機には、彼の口に合う紅茶が置いていない。

省庁ではありふれた黒いスーツと、落ち着いた色のネクタイ。
細いフレームの眼鏡を着用し髪をオールバックにした御剣は、まるで別人のようだった。
一応、ここでは現在“御剣怜侍”という人間は存在しないことになっているため、
復職の辞令が下りるまで、着慣れた格好は自粛しているとのことだった。

「成歩堂龍一とその周辺の人間は、楽しく暮らしている様子ッス。」

任務の後の雑談として、糸鋸刑事が御剣の気にしていることの一つについて、
彼らと過ごした中でのエピソードを交えながら話した。

「そうか……それはよかった。」

成歩堂が御剣に腹を立てている様子だと聞くと、困ったような表情も見せたが
それを含めて一通り話を聞くと、御剣の顔が少し綻んだ。
以前はこんな笑い方はしなかった、男の穏やかな笑顔。

そうした変化を見て糸鋸は……この1年の失踪が彼にとって意味のあるものだったことを感じる。
それはまるで、自分のことのように嬉しい気持ちになり、糸鋸も表情を緩めた。

だが、その後話そうと思っていた内容を思い出して、刑事は、すぐに深刻な顔に戻す。

「それと……狩魔冥検事についてなんスけど……」

もう一つ、糸鋸が個人的に頼まれていたことを、糸鋸は言いにくいと思いながら口に出した。
それを耳にした御剣の表情も、やや硬いものに変わる。
机の上の報告書を再び持ち上げて、彼が口を開いた。

「資料によると、相当な数の序審法廷を担当しているようだな。そしてそれら全てに勝訴している」

不自然なものだ、と御剣は続けて呟いた。

「もう、血も涙もないッス……」

1ヶ月に担当した法廷の数を見ると、その仕事ぶりは無茶も良いところであった。

「捜査半日、法廷1時間弱でザクザクと有罪が決まっていくッス……」

その中には明らかに冤罪の被告人もいたのだろう。
検挙する側であるはずの糸鋸が、落ち込むような表情で机を眺めた。

「……彼女自身の様子は、どうなのだ。」

「やっぱり、血も涙もないッス……。しかも取り付く島がないッス……。」

誰とも……専属の事務官とすら、必要最低限の事務的な会話しかせず、
現場では有無を言わさず鞭を振りかざす。

被告人や証人とは、雄弁に会話し意のままに渡り合っているようだったが、
それ以外の場所では、彼女は孤高を貫いていた。

糸鋸は続けて、御剣の復職の噂が流れていることを、本人に語った。
その上で、狩魔検事がそのことに一切興味を示そうとしないことを告げる。

「不思議だな。年末のキミの話だと、彼女は私を燻り出そうとしていたのではないのか」
「そうなんッスよね……」

噂が流れているのであれば……同職であることを生かしてここに乗り込んでくることも可能なのだが……。
狩魔冥が本庁に来たという話は、この年明けから一度も聞いたことがない。

四面楚歌であるはずの日本に乗り込んでくるほど一本気な彼女の“無関心”は
御剣の目に不思議なものとして映った。

刑事の話が無くとも、海外で誰とも連絡を取らずにいた御剣のもとに、彼女の来日の情報が流れてきた時点で
御剣は彼女の意図をある程度は感じていた。
ただ父の仇を取るつもりならば、世界中に成歩堂龍一との対決を知らしめる必要がないからだ。

思いを馳せる御剣に、刑事が言葉を続けた。

「年末までは自分にも少しは打ち解けてくれていたような気がしてたッスけど
  年明け早々に顔を合わせた時からほとんどロクに会話もしていない状況ッス……」

先ほど“取り付く島がない”と言っていたのは、そういうことらしい。

「年末……か。」

糸鋸の言葉の一部に、御剣は引っかかるものを感じた。

「年末に、私がキミに連絡したことを、メイに伝えたりはしていないな」

それはもちろん確認だったので、御剣は穏やかに尋ねた。

「もちろんッス!御剣検事との約束は絶対に守るッス!……それに。」

糸鋸刑事が、悲しそうに若干俯いた。

「そのことを知ったら、狩魔検事はたぶん傷つくッス……」
「……そうだな。」

同意して、御剣は溜息をついた。

「ところで……私が海外研修に出る話なども噂に出ているのだろうか」

糸鋸が頷くと、御剣が苦笑する。

「噂というには事実が洩れすぎているな」

「それじゃ……」

「うム。5月を目処に、1年ほど海外に研修に出る予定だ。
  だが、それまでに一度、そちらの検事局に戻る。」

「ほ、本当ッスか!」

刑事が心底嬉しそうな顔をして、御剣に詰め寄った。
御剣は、その勢いに圧されて一瞬たじろく。

「あ、ああ。……だから、その時に彼女と話をしようと思う。」

御剣の表情に合わせて、刑事も神妙な顔つきで身体を引いた。 

「だから、出来る範囲でいい。それまで、彼女を見守っていてくれないか」

個人的な願いだ、と付け加えた検事に、刑事はしばらく驚いたようなような表情を見せた後、笑顔で了承した。

「もちろんッス!」

何かあったら連絡を取り合うことを約束して、御剣は糸鋸と別れた。

1人残された研修室で思索に耽る。

刑事は「伝えていない」と言ったが、メイは賢い子だ。

残されたいくつかの痕跡から、彼女が簡単に答えを導き出した可能性は充分にありえる。
そう考えれば、年が明けて急に態度が硬くなったという変化にも説明がつくのだ。
 
糸鋸刑事を使って彼女を“操作”したことに気付かれていたとしたら、彼女が刑事を警戒するのは当然のこと。

そして突然姿を消した上、見えない場所から彼女のプライドを踏みにじるかのような行動をとった御剣には……
相当、怒りを抱いていることだろう。

御剣は、胸ポケットから折りたたんだ封筒を取り出した。
1年ほど前に届いた、アメリカからのエアメール。
差出人は、狩魔冥だった。

手紙は、彼女の父が勾留された1ヶ月ほど後に御剣のもとに届いていた。
だが、御剣が手紙を読んだのは……ごく最近のこと。

どうしても読めずに、書類入れに仕舞っていた。

なぜなら、恐れていたから。
事実がどうあれ、彼女の立場から見れば、御剣は「彼女から父を奪う原因となった男」と映るかもしれない。

決して合理的な思考に沿わないとわかってはいるが、御剣の中にもどこかでそんな後ろめたさがある。
彼女にそれを突かれて責められることが、怖かった。

そしてそれ以上に、「妹のように可愛がっていた少女」と、「父を殺した男の娘」が
自分の中で重なることが……何も知らずに御剣と一緒にいた彼女に、憎しみを向けそうになる自分が怖かった。

父を失った後の御剣が、それでも前に進んできた過程を振り返ると……メイの存在は大きな意味があるように感じている。
その彼女を憎むことなど、あってはならないと思っていた。
そうしてしまうと、きっと、彼女といた時間までも、否定してしまうことになるから。

そうして、御剣は1年ほど手紙を仕舞った後、
気持ちに整理がついた段階で封を切った。
それはちょうど、今年の年始のこと。

覚悟を決めたにも関わらず、手紙は……拍子抜けするほどに穏やかな内容だった。

まず、いつもなら“楽だから”、と英語で書いてくる彼女が、丁寧な文字と文体の日本語で文章を書いている。

彼女の父が御剣の父を殺したと知ったこと。そして、それに対する、娘としての謝罪だった。
最後は御剣への労りの言葉で締められている。

17歳の少女が書いたとは思えない、しっかりとした文章だった。
相当に考えた末に真摯な言葉を選び抜いたような内容で……
そこには、御剣が恐れていたような憎しみは、感じられなかった。

だが、最後に英語で書かれた短い追伸が、彼女の抑えられない心情を現している。

“いったい、何があったの?”

この時点で彼女には、納得できるほどの経緯が伝わっていないことが推察できた。

恐らくあの後、師匠やその周囲の人間は、まだ未成年の彼女に対して口を噤んだだろう。
そしてあの検事局が、汚点となった狩魔豪の情報を海外の検事局の人間に漏らすとは考えられない。

彼女は遠い地で突然、自分を支えていた存在――家族を失った。
しかも、端的な原因と結果だけが提示され、その二つを繋ぐ経緯への道が、闇に閉ざされたまま。

それが、「残された人間」にとってどれだけ辛く恐ろしいことか、御剣は知っていた。

受け取った時点で読んで、せめて一言だけでも返せばよかった。
彼女を思いやる言葉を伝えるべきだった。
そうすれば、もう少し別の未来もあったはずなのに。

自分のことだけで精一杯だった当時の自分にはできるはずもなかったことを、御剣は心から悔やんだ。

彼女は今、多くの人間から恨みを買うような……言ってしまえば乱暴な裁判の進め方をしている。
周囲からは孤立していて、しかも同職だった父は汚点として扱われている。
彼女にもその影響はあるのだろう。
時折新聞に載る彼女の顔は、微笑んでいるが……いつか1年ほど前自分が新聞に載った時の、
顔写真とよく似た……まるで追い詰められた獣が牙を剥くような……そんな険しい笑顔だった。

小さなきっかけがあれば、何か深刻な事態が起こるのではないか……と胸騒ぎがする。

現時点で、復職のために提示された課題が、まだクリアできていない。
条件が整った時点で、御剣の復帰は正式に公表されるが、
それまでの間、「御剣怜侍」は「死んだ検事」として扱われる。

そのため、唯一の例外の糸鋸を除いた人間――特に元の検事局の関係者と連絡をとることを、きつく止められていた。
――実際は刑事のことも……先に自分が勝手に連絡を取ったことで、なし崩しに許された例外だったのだが。

とにかく、査問や研修での上官達の発言から察するに、
自分があの街に戻れるまで……少なくともまだ1週間はかかりそうだ。

それまでどうか、何も起こらずに過ごしてほしい。
御剣は胸に仕舞った手紙に手を当て、心の中だけでそう呟いた。

 

<おわり>