「Love and Hate」

 

男の大きな手が、コート越しに私の腕を掴む。
普段私の前では取り澄ましているはずのその男が
真剣な目で、私を見つめていた。

目を逸らすことも手を振り払うこともできず、私はただ、立ち尽くす。

――わかっている。

恐らく今、私とこの男は、同じことを思っているのだと。

それでも私の脳裏には、私と男の師の姿がちらつき――
――師の……パパの言葉が、耳の奥で重く響いていた。

******

「御剣とは、もう関わるな」
それは、唐突な命令だった。

11月下旬、冥の父は仕事でアメリカを訪れた。
父は定期的に渡米し、時間があれば姉の家族や冥と顔を合わせて日本に帰っていく。

今回の渡米では、父は冥だけを呼び出して夕食に誘った。
冥はその誘いに二つ返事で応じ、行きつけのレストランを予約して父を案内したのである。

そうして一通りの食事を終え、
冥がデザートを待っている間に、父が唐突に先述の声を発したのである。

「……パパ?」
父の声は、低く、厳かだった。

御剣が日本へ渡り、父と二人で会う機会が増えてから……冥はだんだんと気付き始めた。
父は、確かに御剣怜侍の才能を愛している……
だが、彼のそれ以外の部分には全く感銘を受けていないのだ、と。
むしろ、彼を評する時の父の声には、時折軽蔑のような色が含まれていた。

そのことに気付いてから、冥は自分から御剣の話をしない。
そのため、今日は一切御剣の話題など出ていなかったのに……
突然、その名と接触禁止の命が降ってきた。

つまり……今日父が自分に会いにきた目的は、これだと考えるべきなのだろう。
冥は、まっすぐに父の目を見て、話の続きに耳を傾けた。

「あの男はもう、お前にとって毒にしかならぬ。」

「……レイジが、負けたから?」
噂に聞いたことを持ち出して、情報を集めようと試みた。……だが。

「我輩の教えを理解し守っておれば、負けなどありえぬ。」
それ以上の説明はなく、沈黙が訪れる。

その間に運ばれてきたデザートは冥のお気に入りのはずなのに、
口に入れても、味がわからない。

頭の中ではちらちらと、弟弟子のさまざまな表情が浮かぶ。

背中が重い何かに引きずられるような感覚から、どうしても逃れることができなかった。

******

あの日の別れ際、父は、猶予を設定していった。
『……どんなに遅くとも、年末までには心を決めておくように。』

父の言葉は、神託に等しく……そこには、選択の余地などない。
よって、“心を決める”というのは、それまでに納得しておくことを意味している。

その日から、冥は御剣のことを考える時間が増えた。

冥の中で、御剣怜侍という男は、難しい存在だ。

二人は共に、冥の父を師とする相弟子の関係にあるし、
冥自身にとっては、兄弟のような存在でもある。

そう言ってしまえば一見仲睦まじい関係のようだが
冥にとっては、そんな単純なものでもなかった。


冥は、父から愛されたいと願ってきた。

父は、検事として生きることに全てを捧げたような男なので
彼の関心を買うためには、検事として見どころがあるところを見せる必要があった。

実際、それに応えられなかった姉は――今では和解しているものの――当時は父から目を止められず、
最終的に反発して、早々に家を飛び出してしまった、という経緯もあり……

幼い頃から父を慕っていた冥にとって、このことはまさに死活問題だった。

そのため、必死に学び成長し、“天才”として父の理想に叶う娘を目指していたのに……。

後からやってきた門下生の少年……御剣怜侍が、いとも簡単に、全て持ち去ったのである。
それくらい……冥がどれだけ努力してもどうにもならないくらい、彼は本物の天才だった。

父は冥をアメリカに残し、御剣を自分の傍に呼び寄せている。
それが、冥が御剣に負けて父の関心を買いそこなった、何よりの証。
そのことを思い知った時の絶望は、今でも忘れられない。

こうした冥の心境に一切気付かず、兄のように接してくる男のことが
……冥は、昔から大嫌いだった。

だったら、簡単に関わりを断ってしまえそうなものなのだが……。

敗北を自覚するまでは純粋に兄弟のような存在だった、その男に対する感情は、
純粋な「大嫌い」で占められているわけでもないのだ。

それが、冥の物思いをより複雑にしている。


「――以上で午前のプログラムを終了いたします。
  午後のプログラムは1時間後にスタートします」


放送のアナウンスに、冥は我に返る。

目の前のことをそっちのけで、あの男のことを考えていたことに気がついて
自己嫌悪の溜息が洩れた。

後学のためにと参加した、国際会議。
私事で懸念があるとしても、仕事に関わることが疎かになるなんて……。

休憩時間のうちに、気分を切り替えなければ。
冥はそう思って頭を振って立ち上がる。

参加者が各々出口のドアに向かって歩いていく中
立ち止まってこちらを向いている男がいることに、ふと、気がついた。
男は、ただ静かにこちらを見て、取り澄ました笑みを浮かべている。

それは先程、冥が心の中で“大嫌い”と呟いた男……まさに、その本人だった。

 

近くのカフェからテイクアウトしてきたコーヒーを渡され、冥はそれに口をつける。
男もその隣に並んで、自分の紙コップに満たされた琥珀の水面に息を吹きかけた。
二人の周りを、白い湯気が揺蕩(たゆた)う。

会議には偶然、弟弟子に当たる男も遠方から参加していた。

男から誘われた昼食は、“食欲がないから”と断った。
だが男は……“実は私も食欲がない”と言って、冥から離れようとしなかった。

結局、会場にいるのもどうか……という話になって、
二人きり、近くの公園で休憩時間を過ごすことになった。

俯いて何も言わない男を横目に、冥の方から言葉を発する。
「諦めるんじゃ、ないわよ」
無駄だと知りながらも、発破をかけるフレーズしか思いつかなかった。

男は冥を見ることなく、紙コップを見つめて自嘲気味に笑う。
「……さすがに、2度は……ない。」

二人の師である男は、「完璧」と「勝利」以外は決して認めない。
彼を神のように崇める二人は、その思想に従って完璧な勝利を続けてきた。

にもかかわらず……横にいる男は、この数ヶ月で2度の敗北を喫した。
それは同門の二人にとって、最大の禁忌を意味している。

「先生は、敗北を重ねた私を認めてはくださらないだろう」
本当はすでに自分にまで廻ってきている決定事項だけに、冥も何も言えなくなる。

以降は互いに何も言うことなく、ただ傍にいる時間だけが過ぎていった。
時折ちらりと男の顔を見ると、思い詰めたような、疲れた表情が浮かんでいる。

いつかこの男を打ち負かしたい――それは冥の積年の念願だった。
その時こそ、自分はこの鬱屈した感情から解放されるのだと思い、
一縷の望みをかけて、冥は己を高めてきた。

ただ、頭に思い浮かべるのは冥自身の研鑽と機転によって得た勝利の場面であって
男の方が勝手に墜ちていく結末を望んでいるわけではない。

世界の終わりを見ているかのような男の表情に、冥は不安を感じずにはいられなかった。

ふと、静かだった会場の方で、人々の声がざわめき始める。
その音は、二人の時間がそろそろ終わることを意味していた。

「そろそろ、行きましょう」
男は黙って頷き、少し冷めたコーヒーを飲み干した。

男からコップを受け取り、別れの言葉を告げると、
冥はダストボックスを経由して会場へ向かおうとする。

だが、一歩も歩かぬうちに片腕を掴まれ、男の方へと引き寄せられた。

「メイ……」
間近で顔を覗き込まれ、冥は内心で狼狽える。
しばし見つめ合った後、男が何かを決意したように口を開いた。

「もし……もし私が先生の元にいられなくなっても……キミとはまた、こうして会えるだろうか」

それがただの軽口ではなく、真剣な願いであることは、その目が物語っている。
海の向こうでは、冥が想像するよりも深刻な話になっているのかもしれない。
そう感じさせるほど、男の表情には切羽詰ったものがあった。

会いたいと言われて、冥の胸がぎゅっと締め付けられる。

これまで男と過ごしてきた記憶の断片が、
突然、鮮やかに視界に広がるような錯覚を覚えた。

――わかっている。

この男と自分は今、恐らく同じことを思っているのだ……冥はそう思った。

互いを失わずにすむ方法を、必死に探しているのだと。


各々の理由で家族が不在の中、冥はほぼ独りきり、その屋敷で暮らしていた。
そんな冥の前に、ある日、一人の少年が現れる。

二人は長い間、同じ時間を過ごした。

誰にも届かなかった、幼い冥の心を理解し、耳を傾けてくれた人。
冥の中にあった孤独による空虚を、時間をかけて、愛情で埋めてくれた兄弟。

我儘を言って喧嘩になっても、必ず仲直りができた幼馴染。
ありのままの自分でいられる相手。

そして……ずっと、ずっと、その背中を追いかけてきた男。

もちろん、敗北感や焦燥感、羨望、憎しみ……そうした負の感情も、大きく渦巻いている。
けれど、それでも……・むしろ、もしかすると……それすらも、含めて。

――私にとって、この男は、必要な存在……。

はっきりとした答えを、冥は胸の奥で噛みしめる。
男の言動は、恐らく二人が出した答えが一致していることを暗示していた。

その上で、男は一つの道を提案しているのだろう。
二人の師……狩魔豪を必要とせず、かつ血縁でなくても可能な、強固な関係の構築を。

この男は、男女としての絆を冥に求めている。

男の目が今までにない熱量を帯びているように見え、
その視線に射抜かれた冥は、同じくらいに身体が熱くなっていくのを感じた。

男の空いている方の腕が、冥を抱きしめようとするかのように伸びてくる。

その腕に抱かれることは、決して不愉快ではない。
もしそのまま流れに任せることができれば、どれだけ楽だっただろう。

だが、その時……冥の脳裏に浮かんだのは
男との関わりを禁じた時の、声を伴う父の映像だった。


神の声に、どうして逆らうことができるだろうか。
神を裏切る理由など、あるのだろうか。


伸びてきた腕の前に、自由になる方の手を開いて、遮るように顔を逸らす。
すると、男の動きが止まった。
「……メイ」

それだけで拒絶は伝わったのだろう。
掴まれていた方の腕が解けて、冥は自由を手に入れた。

「レイジ」

この日初めて、冥は男の名を呼んだ。
向き直って、男に伝えるべき言葉を紡ぐ。

「この先に何があっても、私にとってあなたは……弟、みたいなものよ」

目を合わせることができず、顔がだんだんと俯いていった。

自分でも、ずるいことを言うと思う。
関わりを拒絶しながら、新しい関係を構築することはないと言いながら、
心の中では今まで通りの関係をやめないと告げているのだから。

だが、冥にとっては、これが二人が互いを失わなわずに済む、最良の方法だった。
……冥が父を裏切らず、男がこれ以上の怒りを買わずに済む、唯一の道である、と。

――それがたとえ、もう直に触れ合うことができない道なのだとしても。

せめて……今までのふたりが積み重ねてきたものだけは、どうしても守りたかった。

「そうか……」

男にはきっと、拒絶や往生際の悪さ、狡さしか伝わっていないはずだった。
……そのはずなのに、男は怒ろうともせず……むしろ、寂しそうに微笑んでいる。

何故か久々に、この男の素直な笑顔を見た気がした。

男が、身を乗り出す。
今度は拒絶する間も与えられぬうちに、冥は男に抱き竦められていた。

「ありがとう」
小さな声だがはっきりと、男がそう言ったことを覚えている。


冥が我に返った時には、すでに二人の身体は離れ、
男は背中を向けて会場へと歩き出していた。

その背中を見送る冥の目から、ポロポロと涙が零れ落ちる。
自分から捨ててしまったのに、置いて行かれたような気分だった。

――大好き、レイジ。

長年一緒にいたにも関わらず、言葉にすることのなかった思いを
遠くなった背中に、呟く。

もちろん、その声は男に届くはずがなかった。

男の姿が見えなくなってから、冥は涙を拭いて歩き出す。
午後のプログラムの開始には、まだどうにか間に合いそうだった。

******

後日、二人にとっての神は、自らの罪で地の底に堕ち
冥は、拠り所であり道標でもある二人の男を、同時に失った。

その時、自分の苦悩や選択が、全て無意味だったことを、冥は思い知る。
だが同時に……ある意味で無難な道を選んだようにも思えたのだった。

 

<おわり>